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2006年12月25日

「白い航路」

「白い航路」
を読んでみた。とてもいい本だった。

…この本は、日本で最初の私立単科医科大学の慈恵会医科大学を創立した高木兼寛先生の生涯を小説として書いた本。脚気の予防方法を確立し、日本海軍における脚気死亡者をゼロにしたひととして高木先生のことは以前から知ってはいたがあらためて読んでみて、その人生、感動した。

この本によると高木は、明治維新の前、薩摩(宮崎県)の大工の一人息子として生まれたとのこと。幼いころから学問に対する欲求が強く、理解ある親のもと、厳格な階級制度では通常は侍の子でしか学問ができなかった時代に、家の手伝いをしながらも学問を続けさせてもらう。そして、階級制度に拘束されないで学問をしつづけるために、医学を志し、師にも恵まれ、医学の道に進む。漢方・蘭学にて医学を優秀な成績で修めるも、戦争時に何もできない自分の無力さに打ちのめされ、そこできらびやかな処置・手術を行う順天堂創設者佐藤ら西洋外科医に憧れる。そして、イギリス人のもとで医学を学び、さらにイギリスに留学し医学部を主席で卒業。帰国。しかし、日本の医学は統計・臨床的イギリス医学ではなく、学問的・基礎的ドイツ医学一色に染まっていた…。
統計的手法で海軍から、当時の死の病である脚気を、周囲の無理解の中で奔走して脚気を一掃し海軍医総監としての地位についたり、日本で始めての看護学校を創設したり、貧しいものを無料で治療する東京共立病院(後の慈恵会医科大学附属病院)で力を尽くしたりするも、森鴎外を筆頭とした当時最先端のドイツ・コッホ細菌学者たちが支配する大学医学や陸軍医たちに「医学者ではなく、単なる統
計を重んじるものとして軽蔑の対象とされ」、権威たちの攻撃の前にひとり身をさらし、子を失う不運も重なり失意の中で、高木は死んでいく。

そんな高木の人生を、かなりフィクションを交えてるでしょうけれど、強い筆で書いている小説です。
父母への恩、師への恩、家族、医学を修めるということ、力を尽くしたい医師であるなら感じる学問への強烈な欲求。医師になる、正しい努力とはなんなのだろう、と最近強く悩んでいた研修医のこころには、いろいろ響きました。

そんな中で特に、今の医療について感じていたことがふたつ、自分の中で言葉になったので書いてみます。

…当時高木は臨床的・統計的なイギリス医学者で、一番力があり主流だった原因を学問的に根源から体系づけるドイツ医学者たちに学問分野で否定されました。
時代が、そう流れていたから、彼は抗いきれなかったわけです。
でも今の医学界って、高木の受けたのとは逆向きの危うさを強く感じます。英語が支配しきった学問の流れもあるのか、資本主義的結果主義が支配されているせいか、結果に繋がりやすい臨床的・統計的論理が一人歩きし、なぜその臨床的・統計的差が出るのか、原因が無視されることがよくある。数字はいじくりやすいこともあるので(数字は編集できるのでメディア・リテラシーを身につける機会がなかった一般医師は、製薬会社の資本力でけっこう簡単に誘導できる…)、研究費も入りやすいのではないかと感じます。MRさんのプレゼンとか聞いていると、「他の薬と比較してどう」とか、仮説そのままにはいかないところを無視しているとか、薄っぺらさをよく感じます。まあ、臨床医には臨床的数字こそが重要なのは事実なのだけれど…。でも、根源から体系づける、ということをはなから無視して臨床にこだわった(かのようにみえる)薄っぺらい数字の流れが(本来とはずれた)【EBM】と称されもてはやされている気がしてならない。
英米医学が世界を支配した悪影響なのか。薄っぺらい、危うさが感覚から離れません。
次の時代がどう動いていくのか、気になるところです。

…もうひとつは、Science(科学)の悪影響。
科学は、物事をシンプルに捉えようとします。なのでその思考過程で、意識的に、事実を無視します。物差しに、入れない。前の大学で科学を学んでいたころは、何を取り上げ何を無視するのかという科学の精神を叩き込まれたものでした。

最近、悩んでいます。
今の西洋医学が無視しているもので大切な情報って、山ほどあるのではないかなと。それらを無視し続けていていいのかなと。
たとえば、「目の輝き」「眼の焦点」「顔色」「表情」「姿勢」「全身から出ている活力」「声の張り」「笑顔の鋭さ・軟らかさ」などなどは、治療による改善・悪化の状態を追いかけたり、救急の緊急度を把握し検査前確率を検討したりするときに役に立つと感じます。でも、それらをカルテに記載してみようとすると、すごく、胡散臭くなる…。
シンプルに客観化できるものだけで論理をつくるのが西洋医学であり科学。逆に客観的物差しにあてはめにくいものをいれようとすると、胡散臭くなるのが医学。
なのかな?
でも、論理体系つくるのに都合の悪い尺度を無視することが、ほんとに医学なのかな…。鴎外ら権威の医学者たちの誤りを繰り返してはいないのかな…。権威書にないものを無視するのが医学なのかな…。
そんなことを鬱々と考え込んでいる最近でありました。

そんな中で、気持ちを整理するのにいい本に出合えたと感じました。

2006年12月01日

理解できない

つくづく、他のひととの違いを感じる。
自分は、離人症の傾向がもしかするとあるのかもしれないけれど、自分にこだわることができない。
自分がどうありたい、ではなく、どんな日本で、世界であってほしい、という気持ちを根拠に動いてしまう。なんでみんな、自分の未来にそんなにこだわれるのか?? もちろん自分もプライドはとても高いしそれが傷ついたときは強く動く。でも、けれど、自分の未来を想像できていないし自分個人の目指すところはない。もとめられても、困る…。
どうしてみんな理想の自分の未来をそんなにイメージできるのか??
自分にこだわれと言われても、できない…。
歯車をあわせることができない。

…まあ、そのうち手ごろな距離感が見つかることを期待して、ぼちぼちと歩いていこう。