ML、という場
ML、とはいったいなんなのだろう。
自分でも医療界では大きめのMLを二つ管理しているので、よく考え込む。
意味ってあるのかな。管理者のくせ、管理者だから、そんなことをよく考え込む。
そんな中、ケアネットの岩田健太郎先生のブログがふと目に留まった(登録している医療者以外はよめません…)。
TFCという医師界で最も良質なMLの主催者が過労で亡くなられたことへのショックの文章。そのMLにはぼくは参加して短かったので、本題について語ることはぼくはやめておく。でも出だしが、そうだよなぁ、と思って少し考え込んだ。
「しばらく前からメーリングリスト(ML)というフィールド(場)に絶望している」
岩田先生らしい辛口のコメント。そんな気は、確かに、する。
でも、どうなのかな。
ブログなどがでてきて、MLよりずっと無責任・危険なしに意見を発信することは可能になり、どのMLも活力は落ちてきている。そうして自然とつぶれたMLはたくさんある。逆に活力がでてくると、議論が白熱しすぎて攻撃的になり、感情渦巻き管理者への攻撃が強まり、管理者は疲弊する。そうして後味悪くつぶれたMLもまたたくさんある。
微妙なバランスを制御しきれないのだ。
MLの次に出てきた有力なメディアとしてあるのは、ブログとSNS。それらがMLをくった、とも感じる。
かといって、ブログの未来はどうなのか?
社会では、声の大きなひと以外には発言権はない。そんなもの。
社会が発言を認めてくれる、閾値に届いた人間以外は発言しても聞いてはもらえない。
本を書くのは極めてコストが高いし能力も必要だけれど、ブログはとても簡単に発することができる。けれど、埋もれる。発信しても、届かない。
その届かなさがいい、ということはある。安全だから。
届くほどにレベルあげろ、という話もある。消費者はレベルの低いものに触れたくはないから。そんな余裕はないから。
なんだけれど、ある意味での無責任さや、そのくせある隣人無視しても生きている都会みたいな冷たさだけで、今後のネットを支配できる気は、しない。
何より、強い人間以外は発言権がない、というのは、嫌い。
SNSはどうか?
確かにはじめは活力はあった。でも、SNSの目新しさはとうにすぎさり、消費者はあきてきている。新しいSNSが立ち上がっても爆発的な活力はみられない。友人でリンクする、というのも、いろいろ動いているひとたちには、お友達ごっこ、と感じられてしまうところがある気がする。
mixiも、匿名での参加が可能になり、2ちゃんねる化してきている。
ともだちのつながり、というSNSから一歩飛び出たものが必要とされている。でもなかなかそこから抜けられない。特定の所属のひとたちだけ集めて特色を出そう、としているSNSはたくさんあるが、なかなかうまくはいっていない…。実際アメリカでは、音楽SNSがはやっている、などと読んだ(ニュースというものは広告の手段ともなるから信用しにくいが:汗)
ともあれ、孤独なひとたちを慰める、というメディアになりかかっているのが日本のSNSな気がする。
「未来まで本質的に必要とされるメディアか?」というと、孤独なひとは多いから、その意味では必要とされるだろう。プチインターネット、としてのmixiはありつづけるだろうけれど、そこのひとの流れの量は多いだろうけれど、未来を拓く活力は、見えない。
さて、ML。
…やっぱり未来への活力は、正直今の僕には見えない。
MLは、良くも悪くも発言者を平等の地位におとしめる。
社会への発言権を持つひとと、持たないひととが共通の立場で意見交換する場。せざるを得ない場。
そこは秩序から遠のく。混乱が生まれる(そこをTFCは個人の努力のもとに見事に整理していたが管理者に大きな負荷をかけた…)。行き違いが生まれたり、価値の低い情報がさも価値あるかのように流されたりもする。個人情報も流出しかねない(実際、MLに投稿するとスパムが増えるし)。
そういった混乱への危険を感じ、ひとはMLから遠のきはじめているのだとも感じる。
消費者が学習し、MLをむやみに利用しなくなった、のだとも言える。
結局、一番価値があるのはoff-lineでひとが集まっていること、と、社会は再認識し始めていると思う。
…でもまあ、たったひとつの存在、で世の中支配されていてもつまらない。傍流ではあってもひとには認められなくても意味のあるあり方、は好き。
まあ、ML。肩の力を抜いてこれからもぼちぼちと続けてみよう。そして気の向くネタでoff-lineもつくってみよう。自分にとっては別段慣れた、楽な作業だし。
そんなこんななので、皆さん今後ともよろしくお願いします m(_ _)m