« 2007年02月 | メイン | 2007年04月 »

2007年03月29日

「参観者の批評や助言」での現場の改善は不可能

タミフルのマスコミや市民の対応に頭にきていたところに、いい文章に出会った。
転載OKとのことなので長いけれどまるまる転載してみる。

> [ 学びの共同体 ]
>
> 古山です。
>
>  佐藤学という教育学者がいます。「学びの共同体」の実現を
> 主唱して、各地の公立学校で実践的な活動をしています。聴きあい
> 学び合う関わりを学校の中に作ることを目指しています。
>  『学校の挑戦 ──学びの共同体を作る』 佐藤学 小学館
>
>  この「学びの共同体」でできてくる学校は、しっとりとした感じを
> 持っているのが特徴です。
>  落ちこぼれ、いじめ、不登校などが劇的に少なくなり、学力も
> 上がっていることが報告されています。
>
>  現在、火がついたように広がりはじめ、昨年春で小学校1500校、
> 中学校300校くらいが取り組んでいるそうです。
>  公立学校を改革することは、とても難しいことで、佐藤氏も数多くの
> 失敗を重ねたそうですが、改革のモデルになるような拠点校ができて
> から、急速に取り組みが広がってきています。
>
>  この「学びの共同体」つくりの中核にあるのが、新しいスタイルの
> 校内研修です。
>  教師は教室を閉ざさず、最低年に一回は、公開授業をやる。
>  その公開授業は普段の授業を取り上げる。特別に用意しない。
>  話合いの対象を、「どう教えるべきだったか」ではなく、「こどもが
> どこで学んでいたのか、どこでつまずいていたのか」の事実に置く。
>  参観者は、「授業者への助言」ではなく、自らが学んだことを述べ
> る。
>
>  このような公開授業を100回くらい積み重ねると、学校が
> 変わってくるというのです。
>
>  従来型の公開授業ですと、参観者が批評したり助言したりします。
> すると参観者が裁判官のような権力者になってしまう。この権力
> 関係が解消されないと、教師どうしの学び合いが起こりません。
>
>  権力関係でない学び合いが教師間に生まれると、急速に学校全体の
> 教育水準が上がってきます。
>
>  先生たちは、つねに問題に直面して苦しんでいる当事者ですから、
> 有効な研修や講習があれば、飛びついてきます。
>
>  ところが、学校の中にいない人たちが教育を指揮すると、現場の
> 困難が「だらしなさ」にしか見えません。そこで、権力関係や賞罰で、
> 動かそうとします。
>  これは、実情にあってないので、学校の人たちはいっそう腐る。
> そこで、ますます権力関係を構築する。
>
>  この悪循環を、日本の学校システムはえんえんと繰り返してきた
> と思います。いままた、教育三法の改正をやろうとしていますが、
> だめになりかけたシステムを、なんとか権力関係と賞罰で動かそう
> とする発想からの改正です。
>
>  どうしたら学校がよくなるかについては、すでにたくさんの
> 提言もありますし、外国のよい実例もいくらでもあります。ところが
> 実行がすごく難しいのです。やってやれないことはない、しかし、
> 日本の学校システムは権限の分散した同士が複雑怪奇にからみ
> 合う構造になっていて、実行が難しいのです。
>
>  ネックになっているのは、日本の教育の実質的命令指揮ラインが
> 長すぎること、法令拘束が多すぎること、教師が行政機構の末端に
> 組み込まれていること、奇怪な人事管理制度があることなど、教育
> 行政の部分にあると見て、その研究をやっています。
>
> *************************
> 【転載・引用を歓迎】
> 古山明男
> *************************

今の医療はまさしくこれだと感じる。
現場に対しては無責任な立場に身を置いている人たち、特にマスコミの立場にいるひとたちが、正義感に基づいて現場責任者の医療従事者を糾弾する。それはこうすればよいのだと、どう実行すればいいのか想像せずに提言する。「だらしなさ」を追求する。無責任な立場にいるからできる、指摘をする。現場の活力はそがれ、権力構造が固定化する。

医療を評価することは専門外のひとたちは難しい。マスコミは専門家でないことをよくあれだけふつうのひとにわかるように報道するよな…とよく思う。
下手に何かを褒めると、不勉強なジャーナリストがわけもわからず見栄えのいいものだけ取り上げて世の中をアンバランスにする、と怒られるのもマスコミだけれど(実際自分もよくそんな怒りをもつけれど…)、でも、やっぱり「いいものを世に知らしめる」ということをジャーナリズムの基本、と定義しなければマスコミが世の中をよりよくすることはできないと思う。糾弾がジャーナリズム、ではないはずだ。
正義感があるジャーナリストこそ、責任感を持ってほしいと思う。現場・未来への責任感と当事者意識のない正義感は、最悪だ…

2007年03月26日

タミフル狂想曲…

タミフルが世間を騒がせている。そんな中、気になっていたことを言葉にしてくれていた記事を見つけた。

「タミフルをほとんど使わないスイス」
http://www.swissinfo.org/jpn/front/detail.html?siteSect=105&sid=7648896&cKey=1174637435000

…日本人って、【治療、何かしなくちゃいけない】【薬、何かつかわなくちゃいけない】という信念が強すぎるなぁ…といつも思います。

タミフルなんて、ふつうのひとに使うと罹病期間はちょっと短くなるけれど使うと症状は逆につらくなる、といういわば熱の出る解熱剤、でしかないわけで。それを、インフルエンザになったらのまなきゃいけない、という思い込みがあったちょっと前というのには(特に母親に…)、日本人はまじめだなぁ、でも上っ面しかみていないなぁ…と感じてしまいます。

誰かに看護られながら休む、というのが治療では根本的に重要なわけで。
それは薬でごまかされるものでは本来ないわけで。
でも、「効率化」された現代、家族が病気になっても誰も休みを取れないから薬でごまかす、子どもが病気になったときに対処方法を家族が知らないから罪悪感もあって薬で何とかしたがる、という社会的な病理があって…。

解熱剤も、脳症とか発生率上げるというし、使うべきではないのですよね…。
でも、「何とかしてあげたい」という気持ちから使用されてしまうし…。

タミフルの安易な使用は、耐性株を増やすということも指摘されないまま世論が
動いているのもとても気になります…。抗生薬や抗ウイルス薬は使用するほど耐性を発生させて使用できない状況をつくる、限りある資源である、という大切な考え方は、本来とても大切だと思うのですが…

さらに加えると、世界の7割のタミフルを使用するなどという、全世界への迷惑をかけながらタミフル信仰を持ち続けた日本の消費者意識という過去はまったく無視して、製薬会社や厚生労働省や研究者に「逆ギレ」する世論って、いくら専門外だとはいえ海外に対して恥ずかしさを感じて勉強していただきたいな…と思うのです…。10代の若者の恋愛感情じゃないのですから…。


…ともあれタミフル。タミフルは使用禁止にしろ、政府・製薬会社・研究者は深く反省しろ、という圧力が今世論を動かしていますけれど、もともと風邪(インフルエンザだけでなく風邪症候群全体)を薬でなんとかしようという文化が根本的に間違えていると思うのです。
重症なインフルエンザ患者や新型インフルエンザが出たときとかは使用しなければいけないタイミングもあるだろうし、意味薄く副作用ある薬の使用はたくさんあるのだから(風邪に抗生剤、体調悪いから点滴、などなど…)、タミフルを使用禁止にする、という局所的な嵐で事件が終るのは、いやだなぁ…、と感じます。


…でもまあ、風邪症候群には西洋医が使うのは苦手な漢方薬がとっても効果的だったりするので、東洋医学もできる医師のところにいくときっちり対処できたりもしますけれど。

感染症の治療中に解熱剤は使うなと教え込まれた研修医、からでした。

2007年03月11日

学者なんだな…と自覚

最近自覚した。
科学者から医者にと逃げてきた自分だけれど、やっぱり自分の基本は学者、科学者であり哲学者なんだな、と。ビジネスマンでも政治家でもなくて、シンプルなほんとう、を追求するのが好きな学者なんだなと。

純粋に臨床目指す友人たちとも、ビジネス目指す友人たちとも、政治を目指す友人たちとも、でも純粋な科学を目指す友人たちとも微妙にずれる自分の目指すべき未来が見えにくくて迷ってきたけれど、まあ、そんなさまよう学者として、仕切りなおしてみようかな、と感じてみた。

2007年03月02日

「マクギーの身体診断学」

ひさびさに本の紹介。

「マクギーの身体診断学」

身体診察。
OSCEなどでいろいろ習いはしますが、結局のところどんな病態生理の裏づけがあるのか、どれくらいの意味・意義があるのか、どんなテクニックがあるのか、その全体像を把握することはなかなかできませんでした…。
この本は、そんな身体診察の技法を、技法、病態生理、感度・特異度・LR、歴史、などなど丁寧に記している本です。あと、山ほど並んでいる感度・特異度・LRの表を見ながら、そういったものを利用していかに使って病気の確率を考えていくのかを練習するのにもとても便利。
この本を読んで、ぼくはいろいろ目が開きました。国試には役に立たないけれど(汗)、医学生・研修医は一冊持っていてもいい本だと思います。