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2007年09月21日

李啓充氏、福島県大野病院事件について書く

「李啓充氏、福島県大野病院事件について書く」

『アメリカ医療の光と影』の李啓充氏が福島県大野病院事件について今週の週刊医学界新聞に書いていたのが気になったので紹介させていただきます。

 5.〔連載〕続・アメリカ医療の光と影(112)(李啓充)
 「殺人犯? それともヒーロー?(2) 」
 http://210.139.254.43/cl/JuU/JqY/dU/6Lh3c/

カトリーナで限界状況の中で献身的に医療をしていた医師が殺人罪に問われたこ
との類似の事件として大野病院事件を取り上げています。

(以下引用)
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ニューオーリンズのポウ医師は,カトリーナという大嵐の直後,勇敢にも現場に
踏みとどまったがために殺人罪で逮捕されるという仕打ちを受けたが,いま,医
療「崩壊」が進む日本の医療現場でも類似の事件が起こっているように思えてな
らない。私がこんなことを危惧するのも,長年の医療費抑制策の弊害で,日本の
医療にも,カトリーナ後のニューオーリンズのように,「人手や物資(日本の場
合は特に人手)が著しく制限された状況」が広がりつつあるからである。

(中略)

特に,日本の診療科の中でも医師不足が一番深刻といわれているのが産科である
が,バックアップ体制が十全とはいえない地方病院の産科で一人科長を担当する
ような状況は,カトリーナ後のニューオーリンズに踏みとどまるのと変わらない
ほど,勇敢かつ献身的な行為と言っても言い過ぎではないだろう。いま,東北地
方のある病院で一人科長をしていた産科医師が,術中死亡例の刑事責任を問われ
て公判中というが,ポウ医師と同じく,過酷な状況にもかかわらず勇敢に踏みと
どまって献身的に働いたが故に犯罪に問われることになったのだから,これほど,
日本の医療者の「士気」を損なう仕打ちもないだろう。日本の司直担当者に,
(法律についても医療についても素人である)オーリンズ郡大陪審の陪審員ほど
の理性と常識が備わっていたならば,起訴はもとより,逮捕にもいたるはずのな
かった事例ではなかったろうか

「手術で患者が死んだら医師の両手を切り落とせ」と定めたのは,紀元前18世紀
に制定されたハムラビ法典だった。「手術で患者が死んだら医師の刑事責任を問
え」という発想は,4000年前のバビロン王朝と何も変わらないのだが……。

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こちらのブログにある公判記録も合わせて読むとなかなか分かりやすいです。

 ロハス・メディカルブログ
 「福島県立大野病院事件第七回公判(1)」
 http://lohasmedical.jp/blog/2007/08/post_824.php


まあ、とある場所での検察のひとの話ですが、

・このタイミングは精神的な揺さぶりというよりは警察の年度末の異動時期にあ
わせただけか?
・こんな事件は普通は逮捕しない
・捜査するにしても在宅調査が普通
・奥さんが出産間近ならなおさら
・この捜査陣は何も考えていないのでは?

というような側面もあるようです。
このような事件で、医療者はいつも身内をかばう、といわれるなどなど、無益な
恨みの応酬があり、みんなが疲弊し、この産婦人科医が救えるはずだった多くの
ひとが救われなくなるなどの無益な悪循環は何とかなくなればいいなと若手とし
ては感じます…。
医療の救命救急という側面と、不老不死の追求(若く健康な人間も不死ではない
のに)という側面との区別ができないがゆえに、死の悲しみからの逃避のために
医者を生贄にする非生産的な儀式は、結局社会を後退させると思うのですが…。

2007年09月16日

いまの初期研修って…

今週、楽しみにしていた地域医療研修で診療所の外来診療に入っています!
ずっと、医療過誤訴訟吹き荒れる中での研修医の保護もあり、決断・決定できな
い研修が続いていた中(野戦病院に行かなかったせいではあるけれど…)、気力
充実した昼の時間での外来診療はとても充実した学びがあって、嬉しさを感じる。

そんなときに気になる記事を見つけました。

 日経メディカルオンライン
 ◆9.13 新臨床研修制度の光と影―医師953人の意見
 http://cmad.nikkeibp.co.jp/?4_7799_134249_5

いろいろ生々しい典型的な意見が並び、いろいろ考えてしまいました。

そしてふと自分も今まで自分が今まで受けた中で最高だったなぁと感じた指導っ
てどんなものだったのかも、考えてみた。
で、マンガ「ヒカルの碁」のような世界があったな、と感じました。。
(そのマンガの大雑把なあらすじは、碁なんて知らない小学生に碁の神様のよう
な幽霊が取り付く。幽霊は石をもてないから、その小学生に手を動かしてもらう
ことで碁をうつ。そこで手を動かし、対局者たちの間で勝負を見ていたその男の
子は、急速に成長していく。というもの)

碁とか将棋とか、様々ある勝負の世界って、そこで戦っているひとにしか見えない
領域がある。
患者さんの病気と向き合う医療という勝負の現場も、やっぱりそうだと思う。い
ろいろ本を読んだりイメトレしたりしても到達できない領域が、(能力が届いて
いれば)現場に立ったときに見えてくる。きっとそれが、現場を経験する、症例
を経験する、ということなんだろう。
そして、一流の医師と一級の病気の勝負の間に研修医ながら立たせてもらえたと
き、一流の視野が見えてくることがあった。一流の医者の思考方法を、傍観では
なく、勝負の現場で体験させてもらえたとき、膨大な学びをさせてもらえること
があった。
研修医の成長のためには講義とか様々なことは必要なのだけれど、もっとも大き
く成長させてくれるのは、そんな一流の勝負、のはず。

スーパーローテートで研修をしていてとてもストレスなのは、そこまでとてもとて
も到達できないこと。
一流の勝負の間に立たせてもらえるにはそれなりの準備が必要。知識だけでなく、
上級医との個人的な関係や、その現場のシステムにどれだけ馴染んでいるか、な
どなどいろいろな準備が必要不可欠。不器用なぼくなどはそれがなかなかつくれ
ずあがいているうちにいつも、次の科に異動になる。
ただ手を動かしているだけ、傍観者であるだけ、のうちに次の科に異動になる。
1〜2ヶ月で異動して、異動先でカルチャーショックでふらふらになっていろい
ろ再構築しているうちにまた次の科、という繰り返しは消耗する。
もちろんそんなのは、不器用な一部の研修医のうめきに過ぎないところはあるだ
ろうけれど。


えらいひとたちや傍観する評価者たちが根本的に勘違いしていることがあると思
う。
スーパーローテートで小児・産婦含めいろいろな科をまわっても、研修医は、見
て回ったといううすっぺらい上っ面な「体験」をしても、永続的に身につく「経
験」は得ることはなかなかできない。上に書いたように短い期間じゃ経験するに
必要な準備はできないし、また、ストレート研修のときにあったようなその科の
学びで生きていくんだという覚悟もない。
だから、経験まで届かない。
研修終って身につかないのは研修医の責任なのか?
もちろん以前の研修にもたくさんの問題はあったけれど、でも深くも大きい弱点
を今の制度は持つ気がする。いまの制度は馴染んでいないということはあるだろ
うけれど。でもその大きな弱点が完全に克服される未来がくるのかな。でも、ど
んな仕組みも穴は消せないからしょうがないのかな。


ともあれ。
学びの多い勝負の視界を後輩にみせれるような先輩に、未来にはなりたいもので
す。努力せねば…。

2007年09月11日

くすりは嫌い?と誤差の範囲と

多すぎる薬は嫌い。多すぎる検査は嫌い。
そんな感覚が自分はとても強過ぎて、よく苦労する。
一年目の憧れてた指導医の影響かなと思っていたが、自分の履歴を振り返ってみてそうではないことに気づいた。

生物学をやっていたとき、科学的な思考はいろいろなものを無視することだと知り、その頭で医学部にきて、記載しにくい副作用は無視されるものだとイメージしていた。
薬害ヤコブの訴訟運動、スティーブンス症候群患者の聞き取り調査などに参加し、副作用がでたときの悲惨さを知った。
副作用の研究をしている先生から、3剤以上内服しているときのデータがある組み合わせはほとんどない、それ以上飲ませることは臨床の場で未知の世界に毎日踏み出していることなのだ、と教えられた。
医療経済、医療経営も学び、無駄遣いは患者の首も医療者の首もしめるのだと腹から感じた。

そんな経歴の自分は、薬に対して否定的な気持ちをまず持ってしまう。
こんな感覚、普通の研修医は持たないものだろう。

でも今までのEBMでの勉強内容を振り返ってみると、そんなにストイックに副作用を気にしなくてもいいものなのだ、と腹で理解できるようになってきた。そんな誤差の範囲にこだわっても、患者に益なく害があると、腹に落ちてきた。

大切なのは、ぼちぼち、の精神。
ストイックにミクロにこだわる批判的吟味もたまにはして自分を疑ってかかるのもいいことだけれど、べつにその差は誤差が吸収してくれるもの。

そんな気持ちで、ぼちぼちやらねば。
そんなことを再認識した今日だった。

2007年09月09日

臨床医として、致命的??

最近いつも感じていた。
おれは、医者としてあまりにバランスが悪い。安定性が、ない。
勉強すればするほど、バランスを崩していく。
それは臨床医を目指すのならば、致命的。


今日、ケアネットの収録に参加させていただいた。苦手な苦手な循環器領域。恥をたくさんかき、失望されてきた気がした。まあ、今後に生かせばいいのでそれはどうでもいいのだけれど。

肝心なことは、自分の問題のコア。緊張感のある場所で第六感を動かしながら自分のちみっちゃいたくさんの悩みへの反応をいただいて、自分の問題のコアが見えた気がした。
それは、今までの研修で知識を患者に適応することをしてきていない、ということだった。


これまでの研修を振り返ってみる。
一年目の半年。消化器中心の一般内科。
指導医は、病歴と身体診察と最低限の検査で治療をしていた。検査なんて入院するときすれば十分です、といわれた。かっこいい、と憧れた。体系的なレクチャーはない病院だったから、本や外部のレクチャーで、そのかっこよさ目指してなんとか勉強していた。

けれど7ヶ月目から外科に入り、カルチャーショックで打ちのめされた。
内科と考え方が違っていて、内科指導医のようなやり方を目指すと「おまえは病気を当てていくからだめなんだ」と怒られた。チームで動いているのに、外科の先生ごとにもいろいろ違いがあり、さらに思考方法がわからなくなった。

それに続いた整形外科、脳外科は扱う疾患がかなり変わったから混乱にひといきつけたけれど、でもやっぱり思考プロセスの整理はできなかった。

大学に帰ってきて、膠原病と内分泌。すでにある程度の鑑別なされて入院してきていること、治療と検査は専門的だし大学で処方・検査を研修医が考えることには高い高い壁があったこともあり、そしていろいろ事情があったこともあり(汗)、思考停止し指示を待つすべを生き抜くために身につけた。

振り返ってみると、
今の医療訴訟の嵐から、診断・治療などの責任から離してもらって守っていただいていたことと、
いろいろな科を異動することで不器用な自分は自分なりの臨床医の思考プロセスを組み立てきれずに今まで来ている、
の大きな二点の問題があったのだろうなと感じる。


EBMは、
・患者の問題整理、
・その問題についての情報収集、
・集めた情報の批判的吟味、
・患者への適応、
・再評価
の5つのステップからなる。

さらに整理すると、
・どう患者に向き合うか
・どう集めた情報を(批判的に)吟味するか
のふたつ。
この前者から距離がある環境のまま今まで勉強してきているせいで、そしてカルチャーショックに適応できずいろいろな情報に振り回されてしまっているせいで、批判的吟味、ばかりをしてしまうようになったのだろうな。そして、自己否定という、悪循環に陥っていたと思う。


でも、さらに考えると。
臨床現場に身を置きながら無責任に批判的検討ばかりをする贅沢な時間をとらせてもらったのだ、とも思う。日々決断、決断を迫られる医者という職業で、自己否定をする贅沢なんてまず取れないもの。

先月は名郷先生がいる病院で研修できたこともあり、EBM、批判的吟味のポイントを急速に整理できのもとてもよかった。
それがおわったちみっちゃいことを悩みぬいた直後の今日に、「結局細かいことなんかより患者さんとどう向き合うかがたいせつなんだ」「体感できないEBMもだいじだけれど、プロの体感もたいせるなので」というあたりまえのことを腹から再確認できたのは、とてもとてもよかった。

かみさまはきちんと俺に道を用意してくれていた。
そんな気がする。


さてさてそろそろ批判的検討には区切りを付けて、傍観者の一歩向こうにふみだすべ。
ちょうど明日から1ヶ月間の診療所研修。自分の外来を持たせてもらえる!!!
そのあとは産婦人科をはさんでERで4ヶ月。ひりひりするほど現場を味わえるはず!

そのあとの後期研修はどうするかな…
患者さんと責任もって向き合うことを、きっちりやるべきなのかな。
一般内科を市中でやりこむこと。それが俺の道なのかもな。
第三者的批判的思考をやり続けたからこそ、一般内科の海に惹かれる。そんな気分の今日。

2007年09月04日

記事: 「患者のために」自由診療に挑む

ふと興味深い記事を見つけました。

朝日新聞 2007年09月03日
「患者のために」自由診療に挑む
http://mytown.asahi.com/iwate/news.php?k_id=03000000709030001

…保険の外側にある鍼灸や整体とかの代替医療を使うひとたちの性質とか実際に
動いているお金とかぼくはよく気になります。調べる余力ないけれど…(T-T)

財布からその場で出る医療費が3割になる、保険。7割引きで提供される、医療。
市場原理で価格は決まらないけれど、代わりに政治レベルでの力関係で価格が決
められる保険。
そんな保険はほんとうのところはどこまで必要とされているのか。
お金がなくったって、必要だからと保険の外側の医療にお金を払い、実際治って
いるひとたちをみていると、時々考え込みます。


まぁでも、養生訓で貝原益軒も下のように書いていますが、西洋医薬どころか鍼
灸でさえもあんまりやらずにすむような生活が、ほんとは正しいんですよね…。
なかなかできませんけれど…

http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/kaibara/yojokun/index.htm
(115)凡(およそ)薬と鍼灸を用るは、やむ事を得ざる下策なり。飲食・色慾を慎
しみ、起臥を時にして(:規則正しく)、養生をよくすれば病なし。腹中の痞満(ひ
まん:腹がつかえてはること)して食気つかゆる人も、朝夕歩行し身を労動して、
久坐・久臥を禁ぜば、薬と針灸とを用ひずして、痞塞(ひさい:腹がつかえて通じ
がないこと)のうれひなかるべし。是上策とす。薬は皆気の偏なり。参ぎ(115)(
じんぎ:薬用人参)・朮甘(じゅつかん)の上薬といへども、其病に応ぜざれば害あ
り。況(いわんや)中・下の薬は元気を損じ他病を生ず。鍼は瀉ありて補なし。病
に応ぜざれば元気をへらす。灸もその病に応ぜざるに妄に灸すれば、元気をへら
し気を上す。薬と針灸と、損益ある事かくのごとし。やむ事を得ざるに非ずんば、
鍼・灸・薬を用ゆべからず。只、保生の術を頼むべし。