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2010年04月12日

異世界

昔から、ぼくは何故だか、ものすごく好いてくれるか、ひどく嫌われるかのどちらかになることが多い。あと、何かしてくれそうなひと、といわれることもよくある。

なんでなのかなぁ・・・
よくわからなかったんだけれど、つい最近、わかった気がした。

自分は、ほかのひとと少しずれた世界を生きている。なんとなく、ずれている。
捕らえ方、行動の仕方、何かが違うのだ。

そうすると、同じ世界を生きていたいひとには、嫌われる。
変化がほしいひとには好まれる。

そうなのかな。やっと、わかった気がした。

2010年02月04日

思い出にのこる患者さん

在宅医をして1年弱。そんな短い期間でも、こころに残る患者さん何人にも会わ
せていただいた。そんな患者さんのひとりについて、思い出してみる。


患者さんは認知機能低下ある90代の女性。
7年ほど前に胆管結石・胆管炎で手術。その後意欲・食欲低下。胃ろうや中心静
脈栄養で医学的加療行うもよくならず。しかし、家族によるりんごの料理をきっ
かけに経口摂取可能になる。その後、診療所から訪問診療を行っていた。医者が
いくととても喜んでくれて、歌を歌ってくれたりしていた。

そんな患者さんが、いよいよ状態が悪くなってきた。衰弱進み反応低下、下肢の
浮腫が進行。採血すると低アルブミン血症、低亜鉛血症ある。

どうするか。
じっくりご家族と話をすると、薬物治療は望まれない。確かに、これから亜鉛等
々を補正したところでよくなるとは思いにくい。薬なしで様子をみることに。
一度は訪問診療の回数を月2回に増やすも、特に医学的介入ですることもないた
め家族の希望あり月1回に減らす。
その後、徐々に浮腫悪化、レベル低下しつつも半年経過。が、いよいよ、のとき
がくる。状態が低下しているからと往診。確かに、以前のような受け答えなく反
応にぶい。いよいよかもしれない、そう告げて帰る。
翌日早朝連絡あり。朝、家族が見に行くと息を引き取られていたとのこと。駆け
つけると、家族は穏やかに患者さんを見守っている。

前日のことを聞く。昨夜もご飯をいつもの量たべたとのこと。食べ終わると、
「おいしかった。ありがとう」と普段言わないことを言う。へんだなぁ、と家族
も感じていた。そして就眠。翌朝、息をしていなかったと。


素敵なひとだなぁ。そう思った。
最後の言葉が「おいしかった」というのは、患者さんから家族へのほんとうの気
持ちだったんだろう。

家族がそこにいる。医者やることなし、出番なし。それはとても素敵なことだと
思う。


「おいしかった。ありがとう」
自分も、家族に最後にそういってもらえるように努力したい。とてもとても、難
しいことだけれど。

2010年01月30日

ぴんぴんころり?

今日,外来をしていたらショックなニュースが入ってきた.外来でずっと診てい
た患者さんが,亡くなられたというのだ.


患者さんは高齢者.以前,お風呂で意識を失い誤嚥からの肺炎で入院したとき担
当した方.記名力障害と高血圧のほか,頻尿,そして何故か足が前に出ない,と
いう症状があった.表情豊かで震えもなし,パーキンソンとか診断つけるには不
自然だったので退院後は外来で漢方薬で調整していた.牛車腎気丸や苓姜朮甘湯
という薬を使って頻尿や足の動きはある程度はよくなったんだけれど,でもある
程度以上はびくともしなかった.でも,なんか気に入っていただけて,一ヶ月に
一度のおしゃべり外来を,混んだ外来でこっそりお互い楽しみつつつ2年近くの
付き合いになっていた.

今日はその方の外来の日.けれど患者さんはいらっしゃらなくて,いつも一緒に
来ていた娘さんだけ.聞くと,2週間前に亡くなられたとのこと.お風呂で,水
に顔をつけた状態で発見されて,救急搬送・心肺蘇生も効果なかったと...そ
れを伝えにご家族がきてくれたのだった.

2年前に同じようなことあったから,ご家族もその方のお風呂はずっと気にされ
ていたのだけれど...
仕方はないとはいえ,ショックだった.


…ここ佐久にはぴんころ地蔵という地蔵がある.お参りするとぴんぴんころりと
なくなることができるというのだ.そういった名所は日本各地にある.ぴんぴん
ころり,憧れる方は多い.けれど,ほんとうにそれはいいものなのだろうか?

ぴんぴんころりといえばいい響きなのだけれど,それは急死,に近い.それは,
周囲が大きなショックを受けることがほとんど.死への準備ができていないから
だ.
人生,長い道のり,たくさんのことが詰まっている.それはやっぱり,きちんと
締めくくりたいのが人情というもの.いろんなひとに囲まれてゆっくり息を引き
取りたいし,周りもじっくり準備したいものじゃないかな.

その意味で,高齢者の癌は悪くはない.終末が見えるというのは死の恐怖と向か
い合わなければいけないということだけれど,けれど,すごく難しくはあるのだ
けれどそこを乗り越えれば,終末への準備に適度な時間をもらえる.今は痛みも
ほとんどコントロールできるし.ほかの病気は,そうはいかない.終末がいつか,
なかなかわからないから.


ぴんぴんころり.あるときの急な死.
できれば,避けたいもの.
終末に寄り添わせていただくというのが大事な仕事のひとつである在宅医として
は特に,そう思う.

今日は久しぶりに好きなレストランまで出てきてゆっくり時をかみ締めつつ,そ
んなことを考えていた.

2010年01月21日

いい医者?

昨日は,疲れた.
うちの診療所の在宅登録患者,けれどまだ登録後日が浅くて,自分自身は機会な
くて初めていく患者さん.それが,いよいよ脳血管障害の終末期という連絡が訪
問看護ステーションから急に連絡が入った.嚥下機能低下が進み確かに何度かミー
ティングで話題になっていたから知ってはいたけれど...でも,自分は初めて.
さて,どうする... 看取りは在宅?それとも入院...?

午後は外来あるから昼休みの短い時間での訪問.初めてのお宅で,患者・家族の
生活をはかりとりとるべき距離を測りつつ,患者さんと家族の人生観を写真など
などのご自宅のご様子とかいろいろな情報も使いつつ短時間で読み取り聞き取り
つつ,どこに介護的限界があるのかをはかりつつ,患者さんとご家族にとって一
番いいかたちはなんなのかなぁ,と考えつつ,以前から考えてもらってたとはい
え人生で最後の重要な決断を短時間で家族に迫り... 結局いろいろな状況から
やっぱり看取り目的の入院になったのだけれど,いろいろな患者さんの迷いを感
じてしまって疲れ果て,看取り入院は医者にとってやることないから医者には嫌
な顔されていろいろ注文されて...

へろへろになってそのあと外来して,そのあと書類仕事を片付けて,へろへろと
コーヒーのみつつふらふらしていたら,先輩心療内科医が,アドバイスをくれた.
以前していた質問への,先輩なりの答えだった.


以前,こんな質問をしていた.
「心療内科,そんなに患者さんから話を聞いていて,くたくたにならないですか.
消耗,しすぎないですか・・・?」
患者さんの言葉を受け止めすぎて,ぼくはしばしばぼろぼろになってしまう.来
年,精神科を身に着けたいとローテートを希望しているのだけれど,でも,自分
のこころを守りきる自信が,少し,ない.それで,聞いてみたのだ.
すぐには適切なことばが見つからなかったから,時間をおいて,それに丁寧に答
えてくれたのだ.

先輩の回答は,
「患者さんから元気をもらえばいい」

自分の診療がうまくいっているときは,自分も患者さんから元気をもらっている
のがわかるというのだ.先輩自身も頻度はまだ高くはなくて修行中なのだそうだ
けれど.

限りある自分の元気.与えようとしていたらすぐ尽きてしまう.実際,若いうち
は元気なのだけれどエネルギーを出し尽くして燃え尽きる医者はたくさんいる.
燃え尽きないためには,患者さんから元気をもらえばいい.元気をもらって,渡
して,その回転がうまくまわったときは,自分だけではなくて患者も元気になっ
ていく.

確かに.そんな気はする.何人か,そんな感じがある患者さんが,実際ぼくが担
当した中にもいる.まだ,ごくごく一部だけれど.

与えよう,なんて押し付けているのは,押し付けがましい医療,なんだろうな.


いい医者ってきっと,患者さんから元気をもらえる医者.
修行せねば.
そう,思った.

2009年09月21日

まよい

久しぶりのブログ。

研修医になってずっと、迷ってきた。

何に迷っているんだろ?そんなことをふと考え込んでみた。

変化させることと、変化させないことに、迷っているのかもしれない。


自分は、問題意識を持ってそこに向かっていく性癖がある。
対して、ふつうは規範にのっとって修行するもの、のようだ。

問題意識を持つと、攻撃性が出てくる。既存のものを批判することになる。

そこに存在するものは、歴史があるものだしそれはそれの価値がある。ぱっと来た、また外に行く他人が口を出していいものか。


いつく場所が決まれば、迷いはあってももっと前に進めるのかな。早く修行を終わらせないといけないんだろうな

2009年06月04日

小池宙の属性2

小池宙の属性は何か.また感じることがあった.
ぼくは,ひとの苦しみ,にこころが向いてしまう.そんな性質が強い.


…このあいだ,上司に言われてあたまに来たことがあった.

「患者は症状を訴えるのが仕事のようなものだ.いちいちそれに対処するのではなく,傾聴することがたいせつだ」

患者さんの症状を引き出し,何とかしたいと動いてしまうぼくへの説教だ.検査データではなく症状と身体所見をもとに利用する東洋医学という,上司には理解できないものをつかうぼくへのメッセージだ.

…一見,もっともらしい.今の医者の多くはそう考えているのが,たしかに実態.医者のグループにいると右も左もそう考えているから,真実だと思うのだろう.そして,「不定愁訴」の患者が来ると上から下まで検査して「検査しても何も無かったです.病気じゃないです大丈夫です」といい,それでも訴えあるとリーゼを処方する.

…大丈夫なのはお前のアタマだ!! とそんな医者たちの背中を見ているといつもアタマにくる.

症状は,そこに存在する.それをその医者の限られた世界観の中では理解できないし治療できない.ただそれだけ.治せない病気なんだ,と患者を教育し,あきらめの心境に行ってもらう.それが今の医療.そうすれば医者は楽だから.
でも,症状を取れないのは医者の腕が悪いからだ.知識が足りないからだ.
そんな腕の悪い医者のところで,患者のADLはどんどん落ちていく.寿命が縮むだけならまだまし.元気に生きれる期間が縮み,介護者含めみんなが苦しむことになる.


…小池は,昔から苦しんでいるひとをみるとそこに駆け寄ってしまう生き方をしてきた.だから,医者になった今,苦しみに直接向き合い対処する東洋医学を使ってしまう.
患者の苦しみと向き合うつもりのない説教には,どうしても,従えない.

2009年05月20日

小池宙の属性

ひさびさに書いてみる。

「小池先生の属性ってなんですか?」

学生時代に国際保健をやり続け、研修医を終えたら国際保健の道に進む予定の後輩に、そんなことを聞かれた。

…振り返ってみた。
学生時代、いろんなことをやった。
薬害ヤコブ訴訟を支える学生の会をつくって関わったり、医療経営というと「金勘定なんてするな!」とヒステリックに怒られる時代に「誠実に営み続けるための」医療経営の勉強会をやったり、職種・専門の有無の垣根をこえて交流する医療系のネットワークをつくったり、医療過誤訴訟による医療者・患者間の対立が険しかったころに原告の間で勉強させていただいたりした。
いろいろやっていて、軸、と呼べるようなものは基本的にはない。

だけれどきっと、ちょっと手を伸ばすとそこにある異世界、コロンブスの卵的に住民を元気にする物事、そういったことに手を出し世に広める仕事をやり続けていたのだと思う。
だが、そのころはまだ学生でありまたぼく個人の経験の問題もあり、それらの専門家になることはできなかった。そのため、やり続けることはできなかった。


そんな自分は、最近は東洋医学に気持ちが向いている。

…今の日本で東洋医学は、新型インフルエンザでいうフェーズ3の段階にある。つまり「【鍼灸師・治療家】から【医師】への新たな知識の伝播があるが、【医師】から【医師】への伝播がないかあっても稀である状態」だ。
世界ではWHOやICD-11などで真剣に研究され、大学での医学教育でも必修となっているが、日本国内の臨床ではほとんど注目されていない。しかし、興味を持つ学生・研修医は増えつつあり、臨床現場でもぼくのように漢方と鍼灸を西洋医学に併用している医師は全国に散在する。そして患者も、一時期は国民皆保険によって西洋医学に吸い取られたが、少しずつ東洋医学にいく人間も増えつつある。

爆発的に伝播する時が、数年以内に必ず来る。

我流な面はつよいけれど、治療家としては平均値以上の勘を持っていると自分では感じる。そろそろこの分野に属性を置いて、同時に地域医療というフィールドに身を置いて、突き進んでみようかと思う。

2008年01月26日

欲と夢と

ふと、昔友人に言われたことを思い出した。

 ICU生ってみんな、雲の上を生きている。

たしかに。的を得た表現だな、と思いつついた。


…最近、泥沼の中を歩いている。研修なんて泥臭いものだ、そんなものだと思っていたけれど、なんか違う気がしつついた。
そして、分かった気がした。

最近の自分、欲、にまみれている。欲といっても、生存欲、とか生きる欲。別にお金とか名誉とかには興味はないけれど。

いろいろな会社の社長とかみていると、輝いている人たちがいる。対して多くの病院長は、臨床医していたころは輝いていただろうに…今は人相がおそらく悪くなっているんだろうな…と感じてしまう先生たちが多い。おそらく、臨床という、戦いつつも夢の中、な世界から、生死を分かつ生存欲を全開にして戦い抜かねばならないところにいくからなのではないだろうか。

で、自分。
仲間たちとこれからどう歩くのかとか、どんな医者としての道をあるこうだとか、生存欲で息も絶え絶えになっていた。
顔色とか、とても悪くなっていたと思う。
生存欲。
必要なんだけれど、その向こうにいかないといけないもの。
欲をこえて、雲の上の歩みを取り戻さないと。

欲ではなくって夢。
筋斗雲にのれる自分でありたいな。

2007年09月11日

くすりは嫌い?と誤差の範囲と

多すぎる薬は嫌い。多すぎる検査は嫌い。
そんな感覚が自分はとても強過ぎて、よく苦労する。
一年目の憧れてた指導医の影響かなと思っていたが、自分の履歴を振り返ってみてそうではないことに気づいた。

生物学をやっていたとき、科学的な思考はいろいろなものを無視することだと知り、その頭で医学部にきて、記載しにくい副作用は無視されるものだとイメージしていた。
薬害ヤコブの訴訟運動、スティーブンス症候群患者の聞き取り調査などに参加し、副作用がでたときの悲惨さを知った。
副作用の研究をしている先生から、3剤以上内服しているときのデータがある組み合わせはほとんどない、それ以上飲ませることは臨床の場で未知の世界に毎日踏み出していることなのだ、と教えられた。
医療経済、医療経営も学び、無駄遣いは患者の首も医療者の首もしめるのだと腹から感じた。

そんな経歴の自分は、薬に対して否定的な気持ちをまず持ってしまう。
こんな感覚、普通の研修医は持たないものだろう。

でも今までのEBMでの勉強内容を振り返ってみると、そんなにストイックに副作用を気にしなくてもいいものなのだ、と腹で理解できるようになってきた。そんな誤差の範囲にこだわっても、患者に益なく害があると、腹に落ちてきた。

大切なのは、ぼちぼち、の精神。
ストイックにミクロにこだわる批判的吟味もたまにはして自分を疑ってかかるのもいいことだけれど、べつにその差は誤差が吸収してくれるもの。

そんな気持ちで、ぼちぼちやらねば。
そんなことを再認識した今日だった。

2007年09月09日

臨床医として、致命的??

最近いつも感じていた。
おれは、医者としてあまりにバランスが悪い。安定性が、ない。
勉強すればするほど、バランスを崩していく。
それは臨床医を目指すのならば、致命的。


今日、ケアネットの収録に参加させていただいた。苦手な苦手な循環器領域。恥をたくさんかき、失望されてきた気がした。まあ、今後に生かせばいいのでそれはどうでもいいのだけれど。

肝心なことは、自分の問題のコア。緊張感のある場所で第六感を動かしながら自分のちみっちゃいたくさんの悩みへの反応をいただいて、自分の問題のコアが見えた気がした。
それは、今までの研修で知識を患者に適応することをしてきていない、ということだった。


これまでの研修を振り返ってみる。
一年目の半年。消化器中心の一般内科。
指導医は、病歴と身体診察と最低限の検査で治療をしていた。検査なんて入院するときすれば十分です、といわれた。かっこいい、と憧れた。体系的なレクチャーはない病院だったから、本や外部のレクチャーで、そのかっこよさ目指してなんとか勉強していた。

けれど7ヶ月目から外科に入り、カルチャーショックで打ちのめされた。
内科と考え方が違っていて、内科指導医のようなやり方を目指すと「おまえは病気を当てていくからだめなんだ」と怒られた。チームで動いているのに、外科の先生ごとにもいろいろ違いがあり、さらに思考方法がわからなくなった。

それに続いた整形外科、脳外科は扱う疾患がかなり変わったから混乱にひといきつけたけれど、でもやっぱり思考プロセスの整理はできなかった。

大学に帰ってきて、膠原病と内分泌。すでにある程度の鑑別なされて入院してきていること、治療と検査は専門的だし大学で処方・検査を研修医が考えることには高い高い壁があったこともあり、そしていろいろ事情があったこともあり(汗)、思考停止し指示を待つすべを生き抜くために身につけた。

振り返ってみると、
今の医療訴訟の嵐から、診断・治療などの責任から離してもらって守っていただいていたことと、
いろいろな科を異動することで不器用な自分は自分なりの臨床医の思考プロセスを組み立てきれずに今まで来ている、
の大きな二点の問題があったのだろうなと感じる。


EBMは、
・患者の問題整理、
・その問題についての情報収集、
・集めた情報の批判的吟味、
・患者への適応、
・再評価
の5つのステップからなる。

さらに整理すると、
・どう患者に向き合うか
・どう集めた情報を(批判的に)吟味するか
のふたつ。
この前者から距離がある環境のまま今まで勉強してきているせいで、そしてカルチャーショックに適応できずいろいろな情報に振り回されてしまっているせいで、批判的吟味、ばかりをしてしまうようになったのだろうな。そして、自己否定という、悪循環に陥っていたと思う。


でも、さらに考えると。
臨床現場に身を置きながら無責任に批判的検討ばかりをする贅沢な時間をとらせてもらったのだ、とも思う。日々決断、決断を迫られる医者という職業で、自己否定をする贅沢なんてまず取れないもの。

先月は名郷先生がいる病院で研修できたこともあり、EBM、批判的吟味のポイントを急速に整理できのもとてもよかった。
それがおわったちみっちゃいことを悩みぬいた直後の今日に、「結局細かいことなんかより患者さんとどう向き合うかがたいせつなんだ」「体感できないEBMもだいじだけれど、プロの体感もたいせるなので」というあたりまえのことを腹から再確認できたのは、とてもとてもよかった。

かみさまはきちんと俺に道を用意してくれていた。
そんな気がする。


さてさてそろそろ批判的検討には区切りを付けて、傍観者の一歩向こうにふみだすべ。
ちょうど明日から1ヶ月間の診療所研修。自分の外来を持たせてもらえる!!!
そのあとは産婦人科をはさんでERで4ヶ月。ひりひりするほど現場を味わえるはず!

そのあとの後期研修はどうするかな…
患者さんと責任もって向き合うことを、きっちりやるべきなのかな。
一般内科を市中でやりこむこと。それが俺の道なのかもな。
第三者的批判的思考をやり続けたからこそ、一般内科の海に惹かれる。そんな気分の今日。

2007年03月11日

学者なんだな…と自覚

最近自覚した。
科学者から医者にと逃げてきた自分だけれど、やっぱり自分の基本は学者、科学者であり哲学者なんだな、と。ビジネスマンでも政治家でもなくて、シンプルなほんとう、を追求するのが好きな学者なんだなと。

純粋に臨床目指す友人たちとも、ビジネス目指す友人たちとも、政治を目指す友人たちとも、でも純粋な科学を目指す友人たちとも微妙にずれる自分の目指すべき未来が見えにくくて迷ってきたけれど、まあ、そんなさまよう学者として、仕切りなおしてみようかな、と感じてみた。

2007年02月18日

ML、という場

ML、とはいったいなんなのだろう。
自分でも医療界では大きめのMLを二つ管理しているので、よく考え込む。
意味ってあるのかな。管理者のくせ、管理者だから、そんなことをよく考え込む。

そんな中、ケアネットの岩田健太郎先生のブログがふと目に留まった(登録している医療者以外はよめません…)。

TFCという医師界で最も良質なMLの主催者が過労で亡くなられたことへのショックの文章。そのMLにはぼくは参加して短かったので、本題について語ることはぼくはやめておく。でも出だしが、そうだよなぁ、と思って少し考え込んだ。

「しばらく前からメーリングリスト(ML)というフィールド(場)に絶望している」

岩田先生らしい辛口のコメント。そんな気は、確かに、する。

でも、どうなのかな。
ブログなどがでてきて、MLよりずっと無責任・危険なしに意見を発信することは可能になり、どのMLも活力は落ちてきている。そうして自然とつぶれたMLはたくさんある。逆に活力がでてくると、議論が白熱しすぎて攻撃的になり、感情渦巻き管理者への攻撃が強まり、管理者は疲弊する。そうして後味悪くつぶれたMLもまたたくさんある。
微妙なバランスを制御しきれないのだ。

MLの次に出てきた有力なメディアとしてあるのは、ブログとSNS。それらがMLをくった、とも感じる。

かといって、ブログの未来はどうなのか?

社会では、声の大きなひと以外には発言権はない。そんなもの。
社会が発言を認めてくれる、閾値に届いた人間以外は発言しても聞いてはもらえない。

本を書くのは極めてコストが高いし能力も必要だけれど、ブログはとても簡単に発することができる。けれど、埋もれる。発信しても、届かない。
その届かなさがいい、ということはある。安全だから。
届くほどにレベルあげろ、という話もある。消費者はレベルの低いものに触れたくはないから。そんな余裕はないから。

なんだけれど、ある意味での無責任さや、そのくせある隣人無視しても生きている都会みたいな冷たさだけで、今後のネットを支配できる気は、しない。
何より、強い人間以外は発言権がない、というのは、嫌い。

SNSはどうか?
確かにはじめは活力はあった。でも、SNSの目新しさはとうにすぎさり、消費者はあきてきている。新しいSNSが立ち上がっても爆発的な活力はみられない。友人でリンクする、というのも、いろいろ動いているひとたちには、お友達ごっこ、と感じられてしまうところがある気がする。
mixiも、匿名での参加が可能になり、2ちゃんねる化してきている。
ともだちのつながり、というSNSから一歩飛び出たものが必要とされている。でもなかなかそこから抜けられない。特定の所属のひとたちだけ集めて特色を出そう、としているSNSはたくさんあるが、なかなかうまくはいっていない…。実際アメリカでは、音楽SNSがはやっている、などと読んだ(ニュースというものは広告の手段ともなるから信用しにくいが:汗)

ともあれ、孤独なひとたちを慰める、というメディアになりかかっているのが日本のSNSな気がする。
「未来まで本質的に必要とされるメディアか?」というと、孤独なひとは多いから、その意味では必要とされるだろう。プチインターネット、としてのmixiはありつづけるだろうけれど、そこのひとの流れの量は多いだろうけれど、未来を拓く活力は、見えない。

さて、ML。
…やっぱり未来への活力は、正直今の僕には見えない。
MLは、良くも悪くも発言者を平等の地位におとしめる。
社会への発言権を持つひとと、持たないひととが共通の立場で意見交換する場。せざるを得ない場。
そこは秩序から遠のく。混乱が生まれる(そこをTFCは個人の努力のもとに見事に整理していたが管理者に大きな負荷をかけた…)。行き違いが生まれたり、価値の低い情報がさも価値あるかのように流されたりもする。個人情報も流出しかねない(実際、MLに投稿するとスパムが増えるし)。
そういった混乱への危険を感じ、ひとはMLから遠のきはじめているのだとも感じる。
消費者が学習し、MLをむやみに利用しなくなった、のだとも言える。

結局、一番価値があるのはoff-lineでひとが集まっていること、と、社会は再認識し始めていると思う。

…でもまあ、たったひとつの存在、で世の中支配されていてもつまらない。傍流ではあってもひとには認められなくても意味のあるあり方、は好き。
まあ、ML。肩の力を抜いてこれからもぼちぼちと続けてみよう。そして気の向くネタでoff-lineもつくってみよう。自分にとっては別段慣れた、楽な作業だし。


そんなこんななので、皆さん今後ともよろしくお願いします m(_ _)m

2007年02月13日

人生に、運命はあっても、まぐれはない

ふと、そんなことを強く感じた。
こつこつと、努力を重ねるしかないわけで。

神頼みはきらい。
神が運命あたえてくれる自分になるのが、すき。

2007年01月30日

肩の力を抜くこと、身につけないと

脱力って難しい。
つくづく、そんなことを感じた。

2007年01月09日

大木になりたい

へこたれてたら、いいことばをもらった。

「踏まれてもへこたれない雑草は、1年で枯れる
 どんな大木も、はじめはすぐに折れる
 弱いときに折れなかったものだけが、大木になる」

そう、今は弱い。弱くていい。
強くあろうとしたって、しょうがないのだ。
厳しい暑さ、厳しい寒さを年輪としてこころとからだにきざみながら、つぼみをつけるべきときをじっくり待とう。

そうおもった。

2006年12月01日

理解できない

つくづく、他のひととの違いを感じる。
自分は、離人症の傾向がもしかするとあるのかもしれないけれど、自分にこだわることができない。
自分がどうありたい、ではなく、どんな日本で、世界であってほしい、という気持ちを根拠に動いてしまう。なんでみんな、自分の未来にそんなにこだわれるのか?? もちろん自分もプライドはとても高いしそれが傷ついたときは強く動く。でも、けれど、自分の未来を想像できていないし自分個人の目指すところはない。もとめられても、困る…。
どうしてみんな理想の自分の未来をそんなにイメージできるのか??
自分にこだわれと言われても、できない…。
歯車をあわせることができない。

…まあ、そのうち手ごろな距離感が見つかることを期待して、ぼちぼちと歩いていこう。

2006年10月07日

「閾値」をこえる

今日は『Quatre Leaf』 http://quatre.info/ という団体の『風の和太鼓』というミュージカルをみてきた。この『Quatre Leaf』は、病院とか養護学校とかでミュージカルをおこなうことで、そういった場所にいるひとたちに元気を振りまく団体。一度、見てきたいと思ってて、時間をつくって行ってみた。

ミュージカルと手話が非常に合うこととか、いろんな職種のひとたちが主な仕事の合間をぬって運営しているそのエネルギーとか、あたまへの刺激をいろいろもらった。

でもそれ以上に、こころに刺激をもらった。
…ほんとは観客(今日は養護学校の生徒さんたち)のこころを感じなきゃいけなかったのだけれど、それ以上に、自分のこころの動きに集中してしまっていた。

今日の物語り『風の和太鼓』は、防風林が山火事で燃えて不作が続く村に、東京から若い学者が来て、大人たちの反対を受けながらも子供と一緒に植林し、豊作を村に運ぶというはなし。50分くらいの短い時間のなかで、不作ななか夢をみる子供と現実の中で生きることにもまれて新しいことを嫌う大人とか、仲間と計画を実行していくことで成長していく子供とかいろいろ描かれていて、養護学校での公演としてはとてもいいなぁ、と感じていた。

…で、自分がもっとも楽しんでいたしいろいろ感じていたと、思った(汗)。


ここ2年くらいの自分に、濁りを感じていた。

僕は、医学生時代、意識的に医学を勉強しなかった。いろいろ大事な試験はあるけれど、試験に受かること自体は試験の質を見抜いてしまえばそんなに難しいわけではない(医科歯科は私立医大と違ってお目こぼしがあるし(汗)、国試はパターンを掴んでしまえばすべき努力をすれば3ヶ月くらいで合格圏には入れる。…まあ自分の場合は1ヵ月半しか勉強できなかったけれど…)。何よりも、いろいろな先生に会って回ると、いい医者、は、学生時代にすごく医学を勉強していたひとでは、ほとんどなかった。学生時代に勉強しまくったからといっていい医者になれるわけではないというEvidenceを山と見て、医学生時代に医学を勉強しぬくことは、ぼくは捨てた。

…まあ、病院にとって戦力になる医者は、学生時代に勉強していたひとなのだな、と最近理解したけれどね。

まあともかくも、医学を勉強しぬいたところでいい医者になれるわけではないと感じた自分は、学生時代にいろいろ模索した。今もいろいろ模索していたりする。
で、そんな模索は現場の人には否定されたりする。

…この間も病院で言われた。

「先生、臨床医になるの?」

…自分は、研修医のくせにいろいろ手を出している。医学は大好きだし臨床は大好きだけれど、病院で修行につぎ込める力、本や論文を読むのにつぎ込む時間は限られている。俺には体力という才能は普通をちょっと上回る程度しかないし、どうしても限られてしまうというのが、俺の限界。

…東大の医療政策の仲間にすら怒られた。
目の前の患者さんに全力を尽くしなさい、と。
でも、目の前の患者さんに全力を尽くしたところで、今の医療の問題は解決できない。目の前にない悲しみに目をつぶらなければ、目の前の患者さんに全力を尽くすことはできないわけで。そもそも、目の前の患者に全力を尽くすのであれば、公衆衛生的なこととか医療政策的なことなど考えることは、まったくの回り道。

ひとりの医者が診れる患者の数など限界があることは、なかなかひとには理解してはもらえないけれど、真理。
医学は大好きだし、臨床は大好きだけれど、やっぱりそこだけに集中していたら将来自分は燃え尽きることは見えていて、でも医学・臨床に集中しないで余計なことをしていたら針の上に座り続けることになるのも現実で。
…まあ、人付き合いが不得手だという自分の性癖に問題もあるのだけれど。


中置きが長くなったが、今日の公演は、「閾値」に届かずもがいている自分のこころに、ぐさぐさと突き刺さってきた。
そうなんだよね。周りをもっと動かすことができなきゃね。
でも、周りを動かしきるには、自分は今濁っている。自分自身にpureではない。

この2週間、ちょっと鬱傾向になりながら考え込んでみた。

で、僕は恩義に縛られる傾向がある、というのが、昨日でたとりあえずの結論。

そう、僕は恩義に縛られる性癖がある。
師匠への恩、仲間への恩、サポーターへの恩、それらに縛られすぎる。そして、表面的な恩に縛られて、本質的な恩を返せてない現状があったりする。

そう、表面的な恩に縛られている。
ばっさり、それらを断ち切る必要がある。

そうしなくちゃ、閾値には届けない。針の上に座り続ける羽目になる。近い将来、燃え尽きる。


さて、次の手を、打つ。

2006年09月19日

医者とナースと、男と女と

先日、友人と話をしました。
男と女の勘ってなにか違う、とずっとぼくは考え込んでいたのですが、友人に意
見をもらいました。

「女の勘は、視覚的なのでは?」

…なるほど、と思った次第で。
つまり、目で見えるものがふつうとちょっとずれていると敏感に気づく、と。


男の勘って論理とのずれを感じる力、だと思います。
過去から未来までの論理と道筋を、言葉として明確化できていないとしてもくみ
上げていて、それとのずれを感じるのが男の勘、だと思うのですよね。
だから、うだうだと昔のことを気にしたり、かなえられるのかよくわからない夢
にこだわったり、ということがある気がする。

対して女の勘って、上に書いた意見をちょっと進めて、普通・日常とのずれを感
じる力、と自分は感じています。
だから普通、というものへのアンテナの高さは男よりずっと高いし、あつまるこ
とや話すことは好きだし、ショッピングとかのように視覚的な大量の情報を処理
することができるなと感じます。

そう、未整理な大量の情報を処理する女性の能力って、すごいな、と思うのです
よね…。男はざっくり処理していくと思います。
まあ、あくまで平均値の話で、個々人ではかなり分散する話ではあると思います
が。


で、なんでそんなこと書いたかというと、医師と看護の違いは男と女の違いに通
じるところを感じるのです。

医者の本質は、診断と治療、とざっくりとは整理できる気がします。
でもそのどちらの本質も、「物語をつくる」ことだと感じます。

典型的な疾患、典型的な体、というのは理想の世界にしかない。つまりこの世に
は存在しないわけで。教科書には書いていないような非典型的な病気の状態しか
ないなかでその病気だと断定していく。それが、診断。そして、教科書どおりな
理想的なからだなどない中で、微妙にコントロールしていくのが治療。その極致
にあるのが手術なのでしょうね。

そこで重要になってくるのは、どちらも、物語をつくれる能力。
典型的な物語(教科書的疾患)とのずれを感じながら修正しながらどれだけ説得
力のある物語(その人の疾患物語)をつくれるのかが診断であり、ずれてしまっ
ている物語(病気の状態)をいかに元気な状態という物語に、微調整しながら無
理矢理に修正するかが、処置であり手術。
男の勘。
そう、研修しながら感じます。

対して、先日ナイチンゲールをやっと読みました(汗
そこで彼女が何度も繰り返すキーワードが、「観察」。
観察して観察して、よりよい方向に導くのが看護だと、彼女は書いていると感じ
ました。看護は愛だ、といった「与える」というイメージではなく、観察こそが
看護の本質だ、と書いているのだと僕は感じました。そう、五感を使って観察し、
きっちり変化に気づくことができなければ看護ではない。
女の勘を感じます。

現場でナースをみていても、女性の能力をシステムに組み込んでいるな、と思い
ます。身近なことだと、申し送り。看護師は3交代or2交代で病院で働いているわ
けですが、その交代のときは会話で申し送る。
…男だとそんな引継ぎできない、といつも見ていて思います。

医者は男であるべきだ、とか、
看護師は女であるべきだ、とはまったく思いませんが、
歴史的に、男女の違う能力が入り込んでいる気がするのですよね。


…どうなんですかね?

2006年09月07日

男の勘と、女の勘と

このあいだ友人と、おとことおんなの勘の違いについて話をした。

そもそも勘とはなにか。
ずれ、を感じ取る能力だ。

男の勘は、本来あるべ理想的な論理、とのずれを感じる。
対して女の勘は、本来あった通常、とのずれを感じる。

話していてそんな結論になった。
もちろん、男と女の精神構造の間に明確な敷居があるわけではないし、あくまで平均値は、の話しかできないが、たしかにそんな気がする。

ひっくりかえすと、論理的思考ができない男と、ふつうが何か勉強していない女は、レベルが低い?
できる男は「新たなふつう」を作り出す、できる女は「ふつうの新たな先」にすすむ。
そういいかえることができるかもしれない。


つれづれに、考えてみた。

2006年09月01日

男と女の違い?

おとことおんなの後輩は動いてもらい方がどうしても変わる。
おとこの頭の中はシミュレーションしやすく動いてもらいやすいのだけれど、おんなの頭の中はシミュレーションしにくくてどうしても時々ちぐはぐになる。

なものでその違いをちょこちょこと探している。

先日、ひとつまた気づいた気がした。

あくまで平均値での話しなのだけれど、
女性って「お金とかを消費すること」がすき。買い物とか食事とか、とてもとても熱中する。貯金や倹約が好きな女性も結局は未来に消費することを意識していたりするし、結局消費している量は多かったりする気がする。

ひるがえって男性は、「蓄えること、探求すること」がすき。「時間を消費すること」がすき、とも言い換えられるかもしれない。何かを実行すること(まあ身近なところだと女性への興味?)には直接の興味はもてるけれど、直接の消費には女性ほど熱中できない。

…特に自分は、最近サラリーも入ってくるようになったので、そろそろ消費癖をつけたほうがいいのだろうなーと思って財布の紐を緩めてみたのだが、お金を使っていても何にも楽しくない…。消費は自分にはむいていないのだなぁ、と思い知っています。まあ、未来にはパートナー(できるのだろうか?:汗)に消費してもらってよろこぶ構造つくればいいのだろうけど。

…なーんてかんじたのだけれど、どうだなのだろう??

2006年08月25日

つよさ

強さって何か、かんがえる。

ルールの中で上位を目指す。そのために四苦八苦するひとたちがいる。なんだかなぁ、と思う。ちょっとルールが変われば意味がなくなる戦いだからだ。内申点稼ぎとか、同級生蹴落として上にいこうとするひととか、無意味なことがんばるなとおもう。

もうちょっとできるひとたちは、ルールをつくる人間になろうとがんばる。上のほうの法律をつくったりする大学にはいって、政府にはいったり一流企業に入ろうとするひとたちだ。でも、それもなんだかなぁ、と思う。なんか、せせっこましくないかなぁと。

ルール。どんなルールでも勝てる強さを手に入れたい。

もちろん、強くなること、より、生きること、のほうがずっとずっと大切なんだけれど。
でもやっぱり、危うい道でも、強さがほしいな。

2006年07月19日

日経メディカルオンライン

日経メディカルで、竹中先生が書いているブログで、僕のことを書いてくれた。

どんな将来像を目指そうかな…

竹中郁夫の「時流を読む」
修医Kさんのチャレンジ
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/takenaka/200607/500863.html

2006年07月18日

「フェラーリのエンジンのっけた乳母車」

ICU時代、友人に指摘された。

「ちゅうは、フェラーリのエンジンのっけた乳母車だからなぁ」

先日ふと、その言葉を思い出した。
パワーはあるけれど耐久力は弱くハンドルもブレーキもない。ただただエンジンが強い。
そう、そこに、俺の本質があるはず。


最近の自分、濁っている。
はるかな未来にこだわりきれていない。

この状況がどこからはじまったのかな?と振り返ると、ReFLESHがあることに気づいた。
後輩に引き継ごうとがんばりあがき始めたころから、新しいことに挑戦できなくなり、夢を追求するのではなくシステム構築ばかりを考えるようになり、濁りが発生し始めた。
こんなんじゃ、だめなんだ。

【怒り】
を手に取り戻さないといけない。

エンジンであることが、俺の本質であり、チームの中でおれがすべき役割。

フェラーリのエンジンをのっけた乳母車に、戻る。

2006年07月01日

メールがぶっとんだ…

メールがぶっとびました…

といっても正確に言うと、未読にしておいたデータが、既読になってしまった…
60個くらいあったのに…
よそみしながらしごとをするべきではないですね…

今までメールをくれていて、返事していなかった方たち、ごめんなさい…
以後、こんなことがないように気をつけます…

2006年06月23日

女性の育て方、が分からない…

女性の育て方が、分からない…
そんな悩みを持ちながら、長いこと、たつ。


ひとを育てる、ということは、人生観がない人間にはできないと思う。
どんなふうに育つべきなのか、という持論がないと無理だと思うのだ。
外面ばかりはそこそこにできても、肝心の芯にまったく手の出せない教育しかできないから。

そんな前提を置きながら、自分の場合を振り返ってみる。
男をどう鍛えるか、は分かるつもりなのだけれど、女をどう鍛えるのか、が、まるでわからない…。
何かが、違う。

そんなことを感じつつ生きていたら、このあいだ、ふっ、と浮かんだ。
男と女の強さは違うのだ、ということが。

男の強さは「硬さ」だと思う。
対して女の強さは「柔らかさ」だと思うのだ。

…すけべな表現、と怒られるかもしれないけれど、そうではなくて、きっといきものとして、そういった両面をもつことが人間の生物としての強さとしてあると思うのだ。

男は、硬くあるべき。
そのために、鋼を鍛えるがごとく、熱し、叩きのめす。うまくやれば、同時にしなやかさや切れ味も身につける。でも本質は、硬さに向かう方向に、強さがあると思う。日本刀のような世界に、男の道ってあると思う。
そして、女と比べて生来持っている、バカ体力やバカ鈍感さが、そのような鍛える方向に役に立つ。
もちろん、柔よく剛を制す、という言葉もあるように、「柔」を強さとして持つ男はいる。でもやっぱり、信念、など、硬い、と思うのだ。

対して女は、柔らかさ、に強さがあると思う。体力とか鈍感さは男にどうしても届かないけれど、その逆方向に、男は届かない世界がある。
うまく表現できるほど、分析できていないけれど…

なんていうか、柔らかい強さ、が見える気がするのだ。
それが見えきらないうちは、女の子の育て方に迷い続けてしまうのかもしれない…


でも、そんな硬さや柔らかさの向こう側に、きっと、ほんとうの何かがあると思う。僕にはまだ見えないけれど。それをつかむことが、一番大切。人間存在としての、男とか女とかを超えた底にある、強さ。
近い未来に、それを、つかんでみたい。

2006年06月18日

成長してねぇ…

昔使っていたはてなのブログから、ふと思い立って文章の引越し作業をしていた。
で、2004年の9月の日記で、うぅむと思った。


…成長してねぇ…

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ちゅうはマゾだと言われ続けてきた
おれもそうだと思い続けてた
でも、違うことに、今日気付いた

俺は、戦い方は身につけてきた
鍛え方は身につけてきた
でも、癒され方は、知らずに生きてきた

そうだったのか。
道が、見えてきた気がする

2006年06月04日

ヒーローと十字架と

ヒーロー。
おとこのこだったらあこがれる、らしい。
けれど、基本的なところを理解しないであこがれているおとこのこって、多い気がする。

ヒーローの強さは、「上手さ」ではない。どんなにスキルがあっても、上手にものをこなせても、強さにはつながらない。
ヒーローの強さは、背負っている十字架の重さに比例する。そして、その重い十字架を、投げ出さず、きちんと運びこなすこと、が、強さとなる。

そう。
苦しい、とされることをこなすことができないヒーローは、ありえない。

2006年05月05日

褒めて育てる、は、だめ

「褒めて育てる」というやり方がある。
俺の苦手とするところでもある。

が、最近、分かった。
「褒めて育てる」のは、やっぱりだめだ。
使い物にならない人間に、なる。

褒めなきゃ育たない人間は、褒めるというエネルギーを注入し続けないといけない。賛美の言葉を上げ続けないといけない。
そうすると、どうなるか?
指導しているほうはエネルギーをあげ続けなきゃいけないし、そしてその人間のほうは、褒めてもらえる場所に行きたがるようになる。「偉い地位」に着きたがるようになる。また、更なる成長のための努力、を、自分だけで実行できなくなる。

それは、チームを腐らせるし、成長の天井も設定してしまうことになる。

だから、だめ。
「褒めて育てる」は、自分が苦手なこともあるけれど、基本的にはこれからもしないつもりでいこうと思う。

2006年05月01日

オンリーワンに、価値はない

今日、ひとと話していて、自分の口から出てきたことばでつくづくそうだ、と思ったことがある。

 「オンリーワンに、価値はない」

いろいろな人が、オンリーワンになりたがる。ただひとりの、社会に求められる人材になりたがる。
そのために、人を蹴落とし相対的に自分が上位にいけるようにがんばるひとびとがいる。
また、ほかのひとにまねできないことを実行し続けるひとたちもいる。自分もけっこう、その後者のきらいがある。

けれど、そんな、オンリーワンに、本質的に価値などない。
オンリーワンは、コピーがいないから、オンリーワン。
誰も真似できないから、オンリーワン。l
つまり、広がらないから、オンリーワン。

つまり、オンリーワンに、社会は変えられない。影響を与えられない。
社会に影響を与えられないものには、本質的に、価値はない。

オンリーワンなど、糞、なのだ。
まねできるような存在にこそ、価値がある。
まねされなければ、だめなんだ。


つくづく、そう思う。

2006年04月05日

やくたたず〜(汗

昨日、ものすごい数の救急車が病院に来た。

家に帰ってもネットはないし、勉強するなら病院だと思って勉強していたら、外来できている患者さんが調子が悪くなったという、へいわそうな症例がきた。のんびりと診察していると、どんどんと救急車が来て…。

2時間で6件くらいの救急車だったのかな?
最後は、何にもできない自分がそこにいるのは申し訳なくなって、帰ってみた。
はよ、戦力になりたいものだ…

2006年04月03日

初出勤!!

今日は病院で初勤務!
といってもさすがに初日から医者をするわけではなく、オリエンテーションの一日でした。
ぼくが研修するのは小さな病院なので、新人は研修医1人、Ns2人、PT3人、検査技師1人の、計7人のみ。なので、満遍なく、すべての職種・部署がどんな仕事をしているのか聞くことができた。
昨年の研修医の申し送りを読んでいても、いろいろな部署に好きに顔を出していいし、どこでもたいてい親切に教えてくれるそうなので、病院全体を眺めるのにはよさそう。明日はまあおとなしくしておくけれど、あさって、仕事が始まったらちょこちょこいろいろ動いてみることにする予定!

2006年04月01日

ひっこし

4/3(月)から研修が始まる静岡に、昨日引っ越した。

道中は、非常に気持ちよかった!
気持ちのいい日光の中、東名の脇は満開の桜が随所に見られ、しばしば見とれた(←キケン)。
富士の麓では、西から東まで富士を見渡すことができた。山頂から麓までのラインが美しく、「富士見」という地名が各地にある理由が、改めて分かった。やっぱり、見とれてしまった(←超キケン)


…なんだけれど、高速を降りてから、たいへんだった…
渋滞で、すすみやしない…
東京で電車がこむのと同じ理由で、こっちの道路はこむのだろうが、月曜からの生活が、ちょっと憂鬱になった。裏道、見つけておかないとなぁ…

アパートでの初めての朝は寒さで目が覚め、ちょっと風邪気味。
気を引き締めつつ、がんばらねば!

とりあえず今日は、片付け〜〜

2006年03月30日

医者になります! 

本日無事、医師国家試験に合格しました!
これで晴れて来週からは医者になれます。
夢の病院、への次への一歩、ここからさらにつむぎあげていきたいと思います。

みなさん、これからもよろしくお願いします!

2006年03月22日

オーガニックレストラン・富士山のやさい塾

今日の夜は神保町、事務所近くのオーガニックレストラン マザーズ・富士山のやさい塾に食べに行った。
とっっっても、おいしかった!!

元気な野菜をシンプルな料理にしていて、素材を生かす、というのはこういうことだなぁ、と感じました。
ビュッフェで、いろいろな種類の料理が食べ放題でお昼は1260円、夜は1890円。たくさんの種類の料理を楽しめるし、量もいくらでもたべれるので、金額的には高めだけれど男も女も楽しめます。
神保町によった折にはたちよってみるといいかも。

しかしつくづく、神保町は味のあるいい町だなと思う。

2006年02月13日

SMAPとホスト

飯を食いながら、家族が見ているSMAPの番組を見ていた。
彼らのスタイルって、まんま、ホストクラブだな、と見ていて感じた。

特別顔がいいひとたちが集まっているのではなくて、チームとしてひとを楽しませ、お金をもらう、というスタイルが、だ。


ホストクラブは時代の流れにあっているということなのだな。

…ひとを楽しませる、か。自分達の職場でできるかというと難しいが、どうすれば応用できるかな。

2006年02月12日

医者以外はいらないのか?

学生団体を運営していていろいろなところにいくけれど、比較的頻度高く感じるのが、医学生以外は興味ない、という態度。医療現場で保険点数稼ぐためには医者がいることが重要で、補充もききにくい、というのは分かるのだけれど、とても即物的だなあ、と思う。
いろいろな種類の職種で…を目指していろいろやっている自分としては、けっこうストレス…


そのうち、そんな状況をひっくり返してみたいな。

2006年01月26日

『オンリーワン』、ということ

『ナンバーワン』と、『オンリーワン』という言葉が良く比較される。
それって、違うとぼくは思う。


『ナンバーワン』というのは、特定のルール・ものさしの上で一番前にいるということ。いちばん強力だとということ。そこには権力とお金が集まる。いわゆる「成功」というやつだ。ひとに賞賛され、憧れられる。レールの上で競争しているひとたちは、これを目指して突き進む。
けれど、正直、偏差値の低い高校を出て、仲間のうちで大学出たのはおれだけ、という環境から医学生という世界にきて思うのは、それって、どれだけえらいことなのかな?という疑問。ふつうのひとたちが、ふつうに生きて、ふつう、という日常の社会ができている。『ナンバーワン』じゃなければほんとにだめなのかなあ?

そして、『オンリーワン』。
『オンリーワン』という地位って、勝ち取るものでは、ないはず。『ナンバーワン』とは本来次元が違う尺度なはず。
『オンリーワン』とは、どれだけ必要とされるか、おまえという人間がいいと他人に言われる、ということだからだ。

どれだけすごいか、は、『オンリーワン』ではない。

どれだけひとに与えてきたか。
どれだけひとに与えたいか。
その積み重ねの結果として、どんなひとに、どれくらいのひとに必要としてもらえるのか。


それが、『オンリーワン』ということ。自分を見つめるのではなくて、社会を見つめ、ほかの人を一生懸命見て、尽くして、そして気づいたらいるのが、『オンリーワン』という場所。

だから、『ナンバーワン』、とは、まったく違うものが、『オンリーワン』。
まあ、競争に勝つ、という「遊び」は楽しいし、生き残るためには勝たなきゃいけないことも多いけれど、でも、よりたくさんのひとと楽しく生きていきたいから、与え続けるという意味で『オンリーワン』という生き方を、僕は目指したい。

2006年01月25日

いちばん、ということ

後輩のブログをみていてふと感じた。

一番を目指す、という生き方があるけれど、それって、人生に目的がないからとりあえず外向きにも内向きにも通用しやすい「一番」という目標を設定するという生き方だ。
悪いことではないけれど、ぶれやすい、迷いやすい、そして勝利者が少ない、危ない生き方かもしれないなと思う。

みんなが人生に独自の目的・目標をもてれば、一番争い、というきな臭い話はなくなるのにな、と思う。でも、それが難しいのだよね…


仲間達と一緒に、いい目標を共有できたらな、と、つくづく思う。

2006年01月09日

存在すること

存在するということは、変わらずにある、ということ
けれど、存在し続けるためには、よりよく変わり続けることが大切。

変わらないけれど、変わり続ける。
存在するというのはそういうこと。

「走り続けなければ立ち止まれない」
不思議の国、アリスの物語にあるエピソード。

難しい。
けれど、二つ言える。

環境に合わない存在は、環境から見捨てられる。
そして、柱を変えるものは存在し続けることはできない。

周りはどんな状況なのか、
自分はいったい誰なのか、

その二つを見失わないことが、大切。

2005年12月16日

いよいよ俺もレッツラー!!

思いノートPCを、無理のし過ぎで(汗)壊した体でがらがらとひっぱって歩いている俺を見かねて、母親がノートPC用にお金を貸してくれた!
さっそく価格どっとこむで検索すると、レッツノートT4(A4サイズ)が16万8千円! やすくなったな〜。
もちろんとっとと申し込みました。999gのR4(B5サイズ)にもとっても惹かれたんだけれど、やっぱり、そこそこな大きさがいいしね。

しかし、しばらくノート周辺を調べずにいたら、A4サイズが1.04kgに今なっていて、びっくりです…。今までずっと、SOTECの初の10万円ノート、電源もあわせたら3kgをこえるやつ、を使いつづけてきたので、体がほんとに楽になりそう…

届くのが、楽しみだ!

2005年12月08日

拠点ができた!

先日代表に戻らせてもらったI-cubeが、事務所を持つことに決まった!! といってももちろん自分達でお金をだした自分達独自のものではなくて、いつもお世話になっているひとの事務所の間借り。
でも、拠点ができるのは、ほんとうに嬉しい!

ネットが便利になった世の中だけれど、やっぱり、一緒の空気を共有することでできることってたくさんある。そう、ネットだけだと、足並みをそろえるのが、本当に難しい…

拠点ができて、何ができるか、何をなすか。
いろいろ、イメージが膨らむ。
楽しみだ!


…でもまずは、国試国試、っと…。

2005年12月07日

原稿が、どうにもスランプ…

ケアネットで書かせてもらっている

http://www.carenet.com/others/icube/index.aspx

の次回の原稿を今朝仕上げた。
知り合いのライターも言っていたけれど、原稿って「神様」が降りてこないとなかなか書けない(>_<) そして最近、どうも神様がなかなか降りてきてくれなくなった…。原稿を書き上げるのに、最近はとても苦労し続けている。「文章が昔にくらべておとなしくなった」と友人達にも言われている。
いろいろ勉強してきたせいで、そしていろいろな人にあってきたせいで、好き勝手にかけなくなってきたのだろう、とやっぱり知り合いに言われた。

むぅ〜。
刺激的なことを発信し続けることができる人間でありたいのに…。
医師になって、責任を背負えるようになったら、また書けるようになるのかな…。

でも、学生としてもまだ書き残していることはたくさんあるはず。
もっともっと、いろいろ書いておかないと…。

2005年11月17日

親子丼発祥の店!

今日のお昼はちょっと時間が空いていたので、日本橋にある親子丼発祥の店、「玉ひで(http://www.tamahide.co.jp/)」に行ってみた。といっても、そこが発祥地というのは、今日知ったのだけれど(汗
前をお昼くらいに通るといつもものすごい行列があるから、ためしに並んでみたのだ。そうしたら、1時間半も並ぶことになって、途中、ちょっと後悔した…。
でも、味は、なるほど、発祥!という感じで、懐かしい味だった。値段も悪くなかったし、まあぼちぼちよかったかな。

ほんと、「親子丼」なんてメジャーな料理に発祥店があるなんて、なかなかびっくりしました。

2005年11月12日

ぱそこんこわれた

正確には、電源コードが壊れた。

午後コンセントから電源引っ張ってパソコンをいじったのだけれど、気付いたらバッテリーが使われていた。コンセントに電源が通じていないのかな〜と考え特に気にもしていなかったのだが、家に帰ってコンセントに繋げてみても、やっぱりパソコンまで電源が届かない。

…電源コードが壊れているということに、そのときようやく気付いたわけでした…

ずっと前予備に買っておいた電源があったから、今こうしてPCを使うことができているけれど、今の状態でPCがつかえなくなっていたらと思うと、寒気がする…
俺の仕事と情報のほぼ全てを、この一台につめしこんでいるから…
リスクマネージメントの重要性を認識した一件でした。


あした、新しい電源コードをとりよせないとな…

2005年10月20日

卒業試験もあとひといき!

やっと、卒業試験が終わる! (再試がなければだけど…(>_<))
どんな結果がでることやら…。特に最後の方はかなり手を抜いたからなあ…。

息抜きにひさびさの書き込み。
今日は明日が試験というのに後輩に家にきてもらって仕事を手伝ってもらった。そしたらサンマルクカフェのCHOCO CROをもってきてくれた。これがなかなかおいしかった!

やっぱりおいしいものはおんなのこにきくのが一番だな、と感じた。


さて、Last Battleに向けて、勉強勉強!

2005年09月21日

【プロ】と【職人】と

「スペリオール」という雑誌で連載している「味いちもんめ」という料理人についてのマンガが好きでよく読むのだけれど、ちょっと前に書かれていた話について書いてみます。


この作者が言うには、
【プロ】は、妥協点を探すひとびと。そこにあるものを最大限に利用して、作り手も客も最大限に満足するポイントを探し、調整し、達成するひとびと。
「客ありき」の存在。

【職人】は、妥協はしないひとびと。納得するまで、やる。
「技術には妥協しない」という存在。


【職人】は最高の作品をつくりたい。いくらでもお金と労力をつぎ込みたい。けれどもそれじゃ商売にならないから【プロ】が、ここまで、という線をひきつつお客さんに納得してもらえるものに仕上げる。

【職人】は、重要。素材の質が、そこで決まる。
でも【職人】ばかりで【プロ】不在では、提供者たちの自己満足で仕事が終わってしまう。

なるほどなあ、と感じる定義です。

こんな定義で医療界を眺めてみると、専門家の集まりで構成されているせいか、歴史的に【プロ】という存在が見えにくかった気がします。
まあ、日本という国自体が、昔の日本に概念がなかった【プロ】ではなく、昔から存在した概念である【職人】が評価されやすく存在しやすかった、ということでもあるとも思いますが。

「最近はどの世界でもプロの手前止まりのやつが多すぎる!
 能書きばっかで、アマチュアに毛の生えたような粗悪なやつもおる。」
というこのマンガの中でキャラクターがつぶやいていたことばも含めて、いい話だなあ、と感じたので紹介してみました。

2005年09月03日

空手を再開!!

体の調子がどうも悪いので、空手の道場に行き始めてみた。一応黒帯もちではあるが、かなり長いこと道場から離れていたので(年もあるし…)当然ながら体が動かない…。
左右のバランスも、めちゃくちゃになっているし…。特に右手はいつもマウスをいじったりペンを使ったりと、比較的止める力の入れ方をしているせいか、動かないのだ。左手は足から力をムチのように伝えて打ちひき、効率的に対象に力を伝えられるんだけれど、利き手の右手はどうにもうまくいかない。スピードものったりとしているし…。
文明の利器の弊害を、強く感じた。

しかし、武術はやっぱりいいね。
昨日は行き始めて3回目だったのだが、体が上手な力の抜き方動かし方を思い出し始め、疲れが減ってきた。練習の最中に必要な飲み水の量も、だいぶ減ってきた。筋力などには興味はないが、効果的な体の動かし方は大好きだ。効果的に体を動かしていると、体の中のいろいろな流れもよくなることも感じることができる。そんな俺には、マシントレーニングやランニングや水泳より、いろいろな動きを必要とする武術がいい。頭も使うしね。


12日から卒業試験が始まるけれど、勉強しながらどれだけかよえるかが心配だが…

2005年08月04日

ひさびさの本棚

ひさびさに実家の本棚を眺めてみた。
…すげえ、面白かった。

明治14年の「ちるちるみちる」
昭和2年の「ドン・キホーテ」

かなり時代は下って、朝日選書の「ダーウィンに消された男」(ダーウィンに進化論のアイデアを盗まれ、時代から消された男の話し)

をみつけてわくわくしています。


…国試にむけてべんきょーしないといけないんだけれどね

2005年07月22日

連載開始!

ケアネット.comにて連載を開始!

   『先輩ドクターへ 僕らからのメッセージ』
  http://www.carenet.com/others/icube/index.aspx

いろいろチャレンジしていくので、ぜひみてみてください!

2005年07月20日

お米が買える幸せ

うちの母親がよく口にすること。
「お米がいつでもあるっていいよね。貧しい家はお米すら買えないんだから」
ふと考えてみると、これが我が家が幸せな理由な気がする。

べつに、はるかな高みと自分を比較する必要、ないのかもしれない

2005年07月04日

無茶しすぎたかな?

信州は諏訪中央病院(鎌田實先生の病院)で実習中〜♪
やっぱり田舎?はいい!
今日も終わってから温泉に行ってきた。肌がいいかんじだ☆
空気もうまいしね。やっぱり来年の研修は田舎がいいとつくづく思った。


そう、こっちにきて世俗から離れて?実習をしている。そして本格的に?国試勉強を始めた性もあって、いつも叩いていたキーボードからだいぶ離れた生活をしている。そうしたら、肩の調子がけっこういい…。キーパンチャー症候群になっている自分を感じた…。無理はちょっとやめないとなあ…。

あと気になるのは、眼。利き目の左目の視野のちょうど中央、黄斑部の映像が、ゆがんでいる…。今日はじめて気付いたのだがいったなんなんだろう…。黄斑変性?? 確率的に非常に低いがちょっと心配…。意識して経過を見てみることにしよう…

2005年05月16日

一日683通の投稿があるMLって…

ぼくらI-cubeの投稿量ってとても多いと言われていたから、MLの投稿の量ってふつうはどれくらいなのかなあ、といつも疑問に思っていた。で、FreeMLのホームページを見ていたら、683通/dayの投稿があるMLがあるとのこと…。うちの4ヶ月ぶんだヨ…。やっぱり活発なところは活発なんだなあ…
まあ、桁が違うところと比べてもしょうがないけれど。

今日は雑誌の取材があるのに結局徹夜してしまった…
気合を入れて出かけねば…

2005年05月09日

ねこのねごと

ねこのねごとって、どうしてあんなに気が抜けるのかねえ…
ふうっと息が抜ける。

ねこに、なりたいなあ…


ひさびさに、つれづれに。

2005年01月01日

去年、そして、今年

去年は、今までやってきたたくさんのことが実った一年だった。たくさんの素敵なひとと会うことができ、たくさんのことが実行でき、たくさんの大切な仲間ができた。さらに多くのものを目指して、そしてさらに新しいことを実行するために、今年も、がんばる。

そして、今年やる柱。会社をつくること。
必ず、成功させる!

2004年12月23日

I-cube、代表をゆずりました…

今日、俺が中心になってつくり育てたサークル、I-cube代表を、後輩に譲った。

2002年5月に立ち上げた、I-cube。
やりたいことをやりつづけ、ときどき迷い、ときたま挫けながらも突っ走ってきた2年半だった。

理想はまだまだ先に見えるから、正直、まだまだ第一線で動きたい。
けれど、ぼくひとりが頑張ったって、世界はうごくものじゃあない。
仲間と一緒に動いて、そしてやっと動くものだ。

もちろん、俺ももうすぐ6年生。
これ以上、頑張り続けることはできないというのも、ある。
頑張りたいけれど、そうもいかない。

仲間たちに、I-cube、任せる。
まだまだ実現はしないぼくの夢。I-cubeを立ち上げたぼくの夢。
日本の医療をつくること。
それを通して、あたりまえのことを、あたりまえに、すること。

I-cube。
ひとりでは紡げない未来を、仲間たちと一緒に紡ぎ上げる場所として、2年半かけて育ててきた組織。
これからどうなっていくのかな?
俺は、運営の第一線からは引いて、趣味の勉強会と、医学の勉強と、会社の立ち上げとに、専念する。運営はすべて後輩に任せる。


…あーーっ!!
引退するって、くやしい!! けれど、信じて、身をひくことに、する。

2004年12月21日

あたりまえのことをあたりまえに

昨日から、Hitachiの発祥の地、日立にある日立多賀総合病院というところに泊
りがけで実習に来ています。ちいさな努力がちょこちょこ見えて、なんとなくう
れしい病院です。
ここで、リハビリのひと(PT、OT、ST)を中心に、Dr、Ns、MSWの合同カンファ
があったんだけれど、リハビリ的カンファレンスは見たことがなかったので(汗)
とても勉強になりました。

院長の訪問診療に昨日ついていったのだけれど、いろいろお話しました。
I-cubeのことも、ちょっと話をしました。

そこで話題になったこと。

「きみのやりたいことって、あたりまえのことだよね」
「あたりまえのことを、あたりまえに。それがいちばん難しい」

そう。
ぼくにとっての夢の病院というのは、ディズニーのようなきらびやかな夢じゃな
い。縁側でネコをひざにのっけてうたたねしているおばあちゃんのような、夢。
あたりまえのことをあたりまえにやる、それが、ぼくの思う夢の病院。

2004年11月23日

ひとりということ

先日、ひさびさにもう誰も住んでいない、前の実家に帰った。ちょっとぼーっとして、久々のひとりきりを楽しんだ。なんかすごく、ほっとした。

6年くらい前に今住んでいる家に越してきて、基本的に一人暮らししてきた。兄弟と同居してたり、同棲していたりなんて期間もあったが、また2年くらい前からネコ二匹と暮らしているが、基本的にはひとりぐらし。そんななか、あまりにろくでもない生活をしているおいらを心配して、弟が高校生になったのをきっかけに、引っ越してきた。
生活が、マジでらくになった!
帰ってくると干された布団がベッドにのっているし、洗濯物も綺麗にたたまれて引き出しに収まっている生活! ぼーっとしているとおいしいものが並べられる毎日!

…けれど一人の空間は、やっぱり気持ちがいいんだなぁ。
人間てなあぜいたくなもんです。


けれどひとはだの恋しさはきえないものだね。

2004年11月03日

性格分析 エゴグラム

エゴグラムで性格分析をしてみた

…かなりあたっている…

http://www.egogram-f.jp/seikaku/

CP=critical parent(批判的な親の心): b

NP=nurturl parent(養育的な親の心): a

A=adult(大人の心): a

FC=free child(自由な子供の心): a

AC=adapted child(順応した子供の心): c


性格

かなり合理的な、ものの考え方をするタイプで、判断力もしっかりしているのですが、何しろ愛情が濃やかな上に、湧き立つほど感情量が豊富で、好奇心も旺盛な為に、心の三要素である(意)、(情)、(知)の内の(情)の部分が他の二要素を圧倒凌駕して、ギャンプルや男女の情交、酒、麻薬など、人が最も理性を失い易い領域で狂気や情熱が燃え盛り易く、生活の場を突き崩すほど、大暴れする危険性を秘めているタイプです。十二分の自制を心掛けるべきでしょう。

恋愛・結婚

貴方を恋人や配偶者として眺めた場合、非常に楽しく面白い相手ですが、世間や自分と云うものを十分に識っていながら、我儘で気儘で、いつ火遊びに走るか判らない危惧を抱かせるタイプです。貴方はこれ以上刺激を求めなくても、十分過ぎる程、個性的であり、且つ魅力的な性格をしている訳ですから、後はなるべく、平凡な生き方を心掛ける事が、バランスの取れたライフ・スタイルを作り出せる方法だと思います。

職業適性

判断力が高く探求心も旺盛で、自分の遣りたいように遣るタイプなので、活躍の場さえ十分に与えられれば、かなりの仕事を巾広くこなす事が出来るタイプです。但し、協調性に乏しいタイプなので、個人プレーが主体となっている職場や職種でないと、はみ出してしまう恐れが十分有りそうです。

対人関係

家族をはじめ、周囲の人々に対して、十分の心配りが行き届く様な、生活態度になって来た時の貴方は、満点に近い性格と言えるようになるでしょう。努力次第では、決して夢では有りません。

2004年10月22日

平和な日

珍しく、6時前に家についた
ふとんにねっころがりながら、小説(おいしいコーヒーのいれかた)を読み始めた
気づいたら、6冊全部よんでいた

こんな贅沢な日は何年ぶりだろう
たまには休まなきゃねぇ

2004年09月21日

見えた気がする

ちゅうはマゾだと言われ続けてきた
おれもそうだと思い続けてた
でも、違うことに、今日気付いた

俺は、戦い方は身につけてきた
鍛え方は身につけてきた
でも、癒され方は、知らずに生きてきた

そうだったのか。

2004年09月14日

今日は胃カメラ

…といってももちろんオイラが受けたわけではない。
病棟実習で今週担当させていただいている患者さんが、胃カメラ検査を受けたのだ。
なかなか苦しそうだった。俺が受けなきゃいけないころはもっと細く入れやすくなっているんだろうけれど、いやだなあ。

患者さん、検査するために朝飯抜きだったんだけれど、看護師さんがとっておいてくれたパンとヨーグルト、もらってしまった。夕方のオヤツができた。らっきー!

今晩は医療におけるBSCの使い方の講演会に行くつもりだから、こいつで糖分(脳のエネルギー源)を補給していくことにしよう。

2004年09月12日

やっぱ、オイラはマルチな思考ができないみたい…

昨日はGREE Night 2.0に行ってきました!
20人くらいの人とお話できました。医療系の外のひととは最近しゃべる機会がぜんぜん無かったので、ちょっと経験値が増えた気がします。
それに、クラブを使うようなイベントってあまりなじみが無い人間なので、イベントの使い方、男と女の動き方の違い、内容が切り替わったときの人の気持ちの変わり方、などなどいろいろ勉強できました。
これらをデータに、9/19のReFLESH、がんばらねばっ!

…とまあいろいろ勉強にはなりましたが、ちょっとへこんだことも。
参加者にはちょっとしたお土産をスポンサーがくれたのですが、その土産、落としてしまった。

調べ物があって、パソコンいじって動き出すときに、荷物が減ったことに気付かなかったみたい。
こんな感じでものを落とすこと、おれはよくある。目標を切り替えて新たな目標を意識したとき、その目標以外、見えなくなってしまうのだ。

それで今まで、ほんと、いろんなもの落としてきた…
この性質、きっと一生なおらないんだろうな…

目標を決めたそのとき、俺を見ていてくれる仲間を、俺はつくらなくちゃ生きていけないんだろうな、と改めて思った日でした。

2004年09月07日

初患者

今日ははじめてのうけもち患者さんに会わせていただいた。
さて、これからどんな実習がはじまるのか。
現実の中で勉強できる、大切な時間がやっと始まった。かみ締めながら、勉強しないと、ね

2004年09月06日

BSL

Bed side learning がとうとう始まりました。つまり、外来患者さんの診察をしたり、病棟の患者さんたちの話を聞いたり、ということ。そろそろ勉強しないとね…

2004年08月29日

いもうと

結局三日坊主で終わっていたブログ:汗
書くことに意義があるのだろう、と気楽なネタから書くことにしてみる。気力があったら重いネタも書いてみよう。

今日、電車の中でばったりと、数年ぶりに妹と遭遇。雰囲気がだいぶ変わった妹を見て、この数年、ずうっとすれ違っていた時間の流れの長さを感じた。
うーん、妹が住んでいるところかは家から1時間しか離れていないはずなんだけどなあ。

べつに嫌いなわけじゃないんだけどね。
そんだけ。

2004年08月06日

いそがしさ

夏休みは、忙しい。
普段出来ないことをやるからだ。
学期中は授業があるから、ルーチンでこなせばいい作業・時間がとても多い。でも、休みに入ると毎日が違う。ルーチンでこなせない。ひとつひとつ頭を使う。とても疲れる。
特に最近は、朝はミーティングor諸作業、午後は塾バイト、夜は診療所当直バイト、という日々が続く。気がつかれる…

ブログはじめたのに、書きたいことはたくさんあるのに、かけないよう。
やりたいこと、やらなくちゃいけないことはたくさんあるのに、できていない…
忙しさの中いろいろやり、いろいろかく先輩医師たちと同じようになりたいけれど、俺にほんとうにできるのだろうか。

できるように、なりたい。

2004年07月22日

ブログはじめる〜

おいらも日記をつけることにしてみました。
三日坊主にならないようにします…

まずは挨拶で。